「犬神」(小酒井不木)

犬神呪術伝承の恐怖と狂犬病感染の医学的不安

「犬神」(小酒井不木)
(「小酒井不木集 恋愛曲線」)
 ちくま文庫

私は、いま
真剣になって筆を執って居る。
薄暗い監房に
死刑の日を待ちながら、
私が女殺しの大罪を犯すに至った
事情を忠実に
書き残して置こうと思って、
ペンを走らせて居るのである。
私はただ事実のありのままを
書くだけであって…。

日本ミステリの大河の源流に位置する
作家・小酒井不木の短篇作品です。
不木の専門分野・
医学ミステリなのですが、
そこにさらに不木得意の
地域伝承のおどろおどろしさが
ブレンドされ、新旧の
恐怖の合わせ技が炸裂しています。

〔主要登場人物〕
「私」

…語り手。女を殺害した死刑囚。
 四国の出身で犬神の血を引く。
露木はる
…「私」と同棲していた女性。
 「私」に殺害される。

本作品の味わいどころ①
犬神の祟りか?恐怖に覆われる精神

表題ともなっている「犬神」からして
すでにおどろおどろしさ全開です。
語り手「私」は犬神筋の家柄。
古来、犬の霊を使役した呪詛使いは
周囲から恐れられ、
その子孫すら忌み嫌われていたという、
西日本に広く伝わる風習を
下敷きとした作品なのです。

「私」は自らが犬神筋であることを恥じ、
故郷の家屋敷を売り払い、
東京へと出てきたのです。
しかし彼の心の中には絶えず
「犬神」がつきまとっていたのでしょう。
犬に噛まれたこと、そして
同棲していた女性・はるがその傷口から
血を吸いだし飲み干したことから、
その不安は増大し、
やがて破滅へとつながっていくのです。
その過程における「私」の心理描写は
鬼気迫るものがあります。
この、犬神の恐怖に怯え、
崩壊していく精神の描写こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ②
狂犬病感染か?不木の医学ミステリ

そうしたホラー的な恐怖とともに、
詳しく記述される狂犬病の症状が、
一層の怖さを感じさせます。
現代では飼い犬の管理が徹底され、
飼い犬の狂犬病発症例も、
人が犬に噛まれる事案も、
かなり少ないものとなっています。
しかし本作品が発表された大正期には、
そうした例が珍しくなかったはずです。
不木は、得意の医学的知見を
ふんだんに盛り込み、
その恐ろしさを語っています。

狂犬病(ウイルス)は咬まれた傷口から
感染すること、
狂犬病は発症を抑えるために
予防接種が効果的であること、
その予防接種は
複数回行う必要があること、
発症すれば効果的な治療法は存在せず
死にいたること、
その際、水を恐れる症状(恐水症)が
みられることなどを、
巧みに筋書きの中に織り込ませ、
読み手の不安を煽っているのです。
医学の進展していない
大正期におけるこうした記述の与える
恐ろしさは、
現代のパンデミックの
恐怖以上のものがあったはずです。
この、医学的知見から語られる
不治の病・狂犬病感染の恐怖こそ、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ③
やはりホラー!完全犯罪の一歩手前

犬神呪術伝承のおどろおどろしさと
狂犬病感染の医学的不安。
一方は古く、もう一方は新しい、
それぞれが相反するものなのですが、
不木はそれを見事に融和させて、
新しい恐怖を生み出しているのです。
しかし本作品はミステリ。
ホラーもしくは恐怖小説に傾くのか、
それとも探偵小説(ミステリ)に
傾斜していくのか。

終盤において発生した殺人事件は、
ほぼ完全犯罪達成となるのですが、
それが土壇場で崩れ去る様は、
ホラーとしか言いようがありません。
作品冒頭で作者は「私」の口を借りて、
本作品がポー「黒猫」
構成が似ている旨を告白していますが、
その衝撃は「黒猫」に
勝るとも劣らない破壊力です。
この、やはりホラーとして完結する
おどろおどろしい展開こそ、
本作品の最大の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。

こうした作品執筆を、
医学研究の余技として
こなしているのですから、
小酒井不木
かなり切れ者だったのでしょう。
しかしながら神は
不木に多くの時間を与えず、
不木はわずか39歳で
早逝してしまいます。
残された作品は
決して多くはないものの、
そのすべては結晶のような煌めきを
保ったまま現代に残されました。
紙媒体として流通している書籍が
少なくなってしまいましたが、
近年再び
出版されるようになっています。
貴重なミステリを、
ぜひご賞味ください。

(2018.1.11)

〔青空文庫〕
「犬神」(小酒井不木)

〔「小酒井不木集 恋愛曲線」〕
恋愛曲線
人工心臓
按摩
犬神
遺伝
手術
肉腫
安死術
秘密の相似
印象
初往診
血友病
死の接吻
痴人の復讐
血の盃

猫と村正
狂犬と女
鼻に基く殺人
卑怯な毒殺
死体蠟燭
ある自殺者の手記
暴風雨の夜
呪われの家
謎の咬傷
新案探偵法
愚人の毒
メヂューサの首
三つの痣
好色破邪顕正
闘争

〔関連記事:小酒井不木作品〕

「紅色ダイヤ」
「恋愛曲線」
「痴人の復讐」「血の盃」

〔小酒井不木の本について〕
21世紀に入ってから、論創社より
「小酒井不木探偵小説選」(2004年)、
「小酒井不木探偵小説選Ⅱ」(2017年)、
河出文庫から
「疑問の黒枠」(2017年)、
そしてパール文庫からは
「少年科学探偵」(2013年)と
出版が続き、
さらには青空文庫の収録も
充実してきました。
小酒井不木再評価の兆しが
見えています。

Umkreisel-AppによるPixabayからの画像

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「生きている腸」
青蛇の帯皮」
「魔弾の射手」

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