「青猫」(萩原朔太郎)

群集の中に在っての孤独

「青猫」(萩原朔太郎)
(「萩原朔太郎詩集」)新潮文庫

前回、萩原朔太郎
「猫町」を紹介しましたので、
やはりこれを
取り上げなければなりません。
本詩集は「月に吠える」に続く、
著者の第二詩集です。
タイトルから意味深です。
「青猫」は、
「疲れたる、怠惰なる、希望なき」
意味を表象するblueによる、と
国語便覧(高校の国語資料集)に
載っていました。
でもそれは
「青」の部分だけではないのか?
「猫」は何を意味している?
わからないままです。

多分、著者は
「猫」が大好きだと思われます。
それでいながら「猫」を
あまりいいイメージで
とらえていないのかもしれません。
「猫町」のおびただしい数の猫も、
精神が崩壊しかけた男の見た
狂気の一歩手前の幻覚なのですから。

これまで読んできた詩人の多く
(ほとんど戦後の詩人だからかも
しれませんが)が、
自然の美しさをたたえるような作品を
数多く残していました。
萩原朔太郎はそうではありません。
都会派詩人なのです。

「この美しい都会を
 愛するのはよいことだ
 この美しい都会の建築を
 愛するのはよいことだ
(略)
 ああ
 このおほきな都会の夜に
 ねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
(略)
 われの求めてやまざる
 幸福の青い影だ」
(青猫)

「私はいつも都会をもとめる
 都会のにぎやかな群集の中に
 居ることをもとめる
(略)
 ああ どこまでも どもまでも
 この群集の浪の中を
 もまれて行きたい
(略)
 (群集の中を求めて歩く)

地方に住んでいる私は、
東京に遊びに出るたびごとに、
その人の多さにうんざりするのですが、
萩原はそうした都会を
愛しているのです。
しかし、そこに表現された詩は、
言いようのない孤独に
満ちあふれています。

自らの望む群集の中にあって、
萩原はなお孤独であったのか、
あるいは孤独だったからこそ
群集の中に在ることを
人一倍望んだのか。

本詩集には序文が付されていて、
そこにはこのような文言が
鏤められています。
「私の情緒は、
 激情といふ範疇に屬しない。
 むしろそれは
 しづかな靈魂ののすたるぢやであり、
 かの春の夜に聽く
 横笛のひびきである。」
「詩はただ私への
 「悲しき慰安」にすぎない。」

日本近代詩の確立者である
萩原朔太郎の詩は、
もう少し時間をかけて
丁寧に味わわなければ、
その意味するところを
理解できないのかもしれません。
折にふれて
読み味わっていきたいと思います。

(2018.9.6)

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