今日のミステリーの謎解きよりも難解
「笵の犯罪」(志賀直哉)
(「清兵衛と瓢簞・網走まで」)新潮文庫

若い奇術師・范は、
ナイフ投げの技が失敗し、
妻を殺してしまう。
笵はすぐに身柄を拘束される。
ところがこの事件は
衆人環視の中で
起きた事でありながら、
故意か過失か、
判断ができなかった。
笵の供述を聞き終えた裁判官は…。
横溝、乱歩がリードした
大正から昭和初期の推理小説。
実は明治生まれの文豪たちも、
この時期ミステリー仕立ての
作品を書いています。
志賀直哉もそうです。
ミステリーのような
謎解きの要素はありませんので、
終末がわかってしまっても
かまわないでしょう。
裁判官は無罪を選択するのです。
本作品における最大の疑問点は
なぜ裁判官が「無罪」を
宣告したのかということにつきます。
それにしても、ナイフ投げの失敗で
相手を死なせてしまえば、
現代の法律では業務上過失致死は
免れないのではないでしょうか。
しかも笵の供述は
限りなく黒に近いグレーの印象を
読み手に与えるものなのです。
「死ねばいいとよく思いました」
「その位なら、
何故殺して了わないのだ」
「とうとう殺したと思いました」
「故意でした事のような気が
不意にしたのです」…。
まるで私がやりましたと
自供しているのと同じです。
しかしそれに続く供述が
本作品の肝となる部分です。
「前晩殺すという事を考えた、
それだけが果して、
あれを故殺と自身ででも決める
理由になるだろうかと思った」
さらに
「私はもう過失だとは
決して断言しません。
そのかわり、
故意の仕業だと申す事も
決してありません」。
まるで人間が
本来一つのものとして持ち合わせている
「理性」と「感情」が
完全に分離したかのような
笵の供述です。
自分に都合のよい
言い訳のようにも思えますが、
じっくり考えるとそれが
最も人間として
正直な在り方ともいえます。
あえて「無罪」としたのは
「疑わしきは罰せず」の原則に
則ったということではないはずです。
人間の「理性」と「感情」が
極限までせめぎ合い、
その結果、無意識の衝動に
突き動かされた行為については
もはや「犯罪」にはあたらない、
ということのように思えます。
笵の供述の中に繰り返される言葉
「本統(本当)の生活」が
何を表しているか、
そして笵と裁判官が
ともに感じた感情「昂奮」の
意味するものは何か、等々、
未解決の要素が多々あります。
作者・志賀が
「無罪」を記した背景を読み解く作業は、
今日のミステリーの謎解きよりも
難解極まります。
(2018.9.28)
