「蜜柑」(芥川龍之介)①

「檸檬」は置くもの「蜜柑」は投げるもの

「蜜柑」(芥川龍之介)
(「蜘蛛の糸・杜子春」)新潮文庫

三等のキップで
二等客室に乗り込んできた
貧しい身なりの娘に、
「私」は不快感をもよおす。
娘はトンネルに
さしかかるやいなや
客車の窓を開ける。
「煤を溶したやうな
どす黒い空気」を浴びて
咳き込む「私」。
不快感が頂点に達する頃…。

何を隠そう、
私は芥川龍之介の中毒患者です。
こんなことを書くと、
性格の暗い文学青年、いや
文学中高年と思われるのが
関の山でしょうか。

別に暗いのが好きなのではありません。
芥川の鋭さが好きなのです。
油断しているとページのすき間から
カミソリが飛び出してきて、
身と心を切り裂かれるようなスリルが、
芥川の小説にはあります。
そんな芥川作品の中で唯一、
明るい希望の持てる作品が
この「蜜柑」です。
たった5頁(新潮文庫版)に
過ぎない短篇です。
しかしそこに凝縮された情景が
素晴らしいのです。

娘はなぜ煤煙が客車内に
流れ込むのを承知で
窓を開けなければならなかったのか?
それは列車がトンネルを抜けたあとに
明らかになります。
その娘は突如、いくつかの蜜柑を
車窓から投げ上げたのです。

「恐らくはこれから奉公先へ
 赴こうとしている小娘は、
 その懐に蔵していた
 幾顆の蜜柑を窓から投げて、
 わざわざ踏切りまで見送りに来た
 弟たちの労に報いたのである」

と、「一切を了解した」「私」。

本作品の前半は
モノクロトーンに支配された
不快な情景の連続でした。
しかし、娘が
蜜柑を放り投げた瞬間から、
清冽で爽快な橙色が
眼の前に鮮やかに広がるような
感覚に包まれます。
その対比が秀逸なのです。
明日取り上げる予定の「老年」は、
終末で色彩が一気に失われる
仕掛けが施されているのですが、
本作品はまったく逆の展開です。

白黒と色彩の、
二つの世界の切り替えの
起爆剤となったのが、
娘が放った蜜柑なのです。
「平常さけていた丸善」に、
梶井基次郎が爆弾に見立てた
「檸檬」を置いてきたのが大正13年。
芥川が「蜜柑」を放り、
「不可解な、下等な、退屈な人生を
僅かに忘れ」たのが大正7年。
大正の文壇では、「檸檬」も「蜜柑」も、
暗く憂鬱な気持ちを吹き飛ばす
爆薬である点は共通していますが、
「檸檬」は置くもの、
「蜜柑」は投げるものだったのです。

中学生にぜひ薦めたい作品です。
「杜子春」よりも「鼻」よりも
「蜘蛛の糸」よりも、
本作品をまず第一に
薦めたいと思います。

(2018.10.15)

【青空文庫】
「蜜柑」(芥川龍之介)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA