「トカトントン」(太宰治)③

某作家の返答の意味するところは何か

「トカトントン」(太宰治)
(「ヴィヨンの妻」)新潮文庫

気取った苦悩ですね。
僕は、あまり同情しては
いないんですよ。
十指の指差すところ、
十目の見るところの、
いかなる弁明も
成立しない醜態を、
君はまだ避けているようですね。
真の思想は、叡智よりも
勇気を必要とするものです。

これまで取り上げた本作品、
最後に仕掛けが施してあります。
「私」なるものの書簡に続いて、
それを受け取った某作家の
返答が記されています。
そこには
「トカトントン」の症状について
同情していない由と、
その症状の改善の手がかりが、
冷たく突き放すように
書かれているのです。
冒頭の部分に繋がる文は
以下の通りです。

マタイ十章、二八、
「身を殺して
霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、
身と霊魂とをゲヘナにて
滅し得る者をおそれよ」
この場合の「懼る」は、
「畏敬」の意にちかいようです。
このイエスの言に、
霹靂を感ずる事が出来たら、
君の幻聴は止む筈です。不尽。

なぜ同情していないか。
それは書簡の送り手が
醜態をまだ十分に
さらしていないからだというのです。
「いかなる弁明も成立しない醜態を、
君はまだ避けているようですね。」
つまり、この某作家は
もっと醜悪な状態の
人間を知っているか、
あるいは某作家自身が
醜く精神を病んでいるかの
どちらかでしょう。

「身を殺して
霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな。
身と霊魂とをゲヘナにて
滅し得る者をおそれよ」
ここも解釈の難しいところですが、
「『懼る』は、『畏敬』の意にちかい」と
書き加えられていますので、
「身も心も滅ぼしてしまえる人間が
偉いのだ」ということでしょうか。
自ら死に至ることを
暗示しているかのようです。

「このイエスの言に、
霹靂を感ずる事が出来たら、
君の幻聴は止む筈です。」
霹靂とは雷鳴であり、
衝撃を受けるほど共感できたら
幻聴は治まる、
ということでしょうか。
さらに言うと、
死を決意できたら幻聴は治る、
ということになるのでしょうか。

そして結びの「不尽」。
これは十分に思いを
述べつくさない意で、
手紙の終わりに添える語です。
「まだまだ言い足りないが」なのか、
「ストレートには
書かなかったが」なのか、
いずれにしても
「もっと強く勧めたいのだけど」
というように考えられます。
何を強く勧めるか。
「自死」なのでしょう。

さて、これらのことから考えて、
この某作家とは
もちろん太宰自身に他なりません。
「この手紙を受け取った某作家は、
むざんにも無学無思想の
男であった」とあります。
「十五年間」等、
戦後を描いた著作の多くに、
太宰は自らを「無学無思想」と
記しています。
本作品執筆時の
1947年の太宰となります。

加えて、手紙の差出人の「私」も
おそらく太宰自身を表しています。
こちらは終戦直後、
1945~46年の太宰と見るべきです。

つまりここには
異なる2つの時期の太宰の姿が
映し出されているといえるのです。
戦後の短期間に
精神を崩壊させていった過程が
読み取れます。

本作発表の翌年、
「いかなる弁明も成立しない醜態」を
描き切った「人間失格」を残し、
太宰は世を去りました。
生き様そのものが、
本作の延長上にあるかのようです。

(2018.11.23)

【青空文庫】
「トカトントン」(太宰治)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA