100万回読み返したい絵本
「100万回生きたねこ」
(佐野洋子)講談社
100万回死んで、
100万回生きたねこがいた。
あるときは王さまのねことして、
あるときは船のりのねことして、
あるときは
どろぼうのねことして、
何不自由なく生きてきた。
しかしねこは、
白いうつくしいめすねこが
好きになって…。
佐野洋子の描いたこの絵本を、
何回読んだでしょうか。
思い出せないくらい
(100万回もは読んでいませんが)、
読み返しています
(この本の所有者は
皆そうだと思うのですが)。
読むたびに
涙がこぼれて仕方ありません。
「悲しい」のではなく「感動」の涙です。
白いねこが死んで、
ねこが泣く場面。
そして最後の頁。
「ねこは もう、けっして
生きかえりませんでした。」
ある意味、不思議です。
不死身のねこが完全に「死んだ」のです。
そのことに感動し、
幸福感を感じてしまうのですから。
読み手である私たちは
無意識のうちに、
そこに人が生きる意味を
重ねてしまうのでしょう。
「死」はどうしても避けられない。
だが、
たとえ100万回生きかえって
不自由のない生活ができたとしても、
誰かを精一杯愛して生きた
1回の一生にはかなわない。
だから一度きりの人生を
大切に生きよう、と。
30代の頃は、
そのことがあまりよく
わかっていませんでした。
ねこが持つ「不死身の命」よりも
「何一つ不自由ない暮らし」に着目し、
「そうじゃなくても
幸せに生きられるんだ」という
安心感を得て
満足していたからかも知れません。
40代を過ぎ50代に入り、ようやく
実感できるようになりました。
「感動」を覚えるのは、
ねこが十分に
「生ききった」からなのだと。
白いねこを愛し続け、
子どもたちを愛し続け、
そして子どもたちを自立させ、…。
こうして考えると、
ねこの最後の「一生」は、
まさに私たち人間の、
ごく当たり前の生活に過ぎないのです。
それを最後までしっかり全うした。
そのことから
「感動」を受け取っていたのだと
気付きました
(おそらく多くの方は
一読して気付くのでしょうが)。
そしてつい自問してしまいます。
おまえはねこのように
連れ合いを十分に愛しているのか?
子どもを十分に愛しているのか?
子どもを十分に自立させたのか?と。
まだ自信を持って
答えることができないのですが…。
読むたびに印象が異なってくる本です。
この本を中学生が読み、
高校生になってから読み、
成人してから読み、
子どもができてから読み、
子どもが成人してから読み、
と継続したとき、
この本はその人に
どんなことを語り続けるのでしょうか。
100万回読み返したい、
佐野洋子の素敵な絵本です。
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(2019.1.18)
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