「マルスの歌」(石川淳)

声高に語れなかった思想が霞の向こうに見えてくる

「マルスの歌」(石川淳)
(「日本文学100年の名作第3巻」)

 新潮文庫

「わたし」の部屋に入ってきて
泣き出した従妹の帯子。
訳を聞くと、
姉の冬子が死んだのだという。
冬子・帯子姉妹は
性格が対照的な二人だった。
「わたし」は帯子とともに
冬子の葬儀に赴くが、
その席上、
夫の三治に召集令状が届く…。

1938年という、
国家総動員法が施行されるなど
戦時下の色合いが
強くなった時代に
書かれた一作です。
そのためか、
何を言いたいのかわかりにくい
(伝えるべきことを作者が
意図的に隠蔽している)
作品となっています。

冬子はガスの充満で
死に至ったのですが、
自殺かどうかは不明です。
しかしそれまでも夫の前で
唖のまねをしたり
聾になりきったりして
戯れていたのです。
「冬子に、何か病的なもの、
 不安なもの、ぶきみなものが
 感じられたとしたら、
 ぼくにしても決して
 ぼんやりしちゃ
 いられなかったでしょう。
 ぼくは安心しきっていたんです。」

抑圧されつつある社会に
適応し損ね、変調を来した
人間の姿が感じられます。

帯子は「わたし」と同じアパートの
一室を借りていたのですが、
自由奔放な生き方をしていました。
そして帯子は、
冬子の自宅を訪れた際に、
ガスの臭いに気付きながらも
その死の影に怯え、
「わたし」の部屋に
逃げ出してきたのです。
死を恐れながらも
刹那的に生きようとしているのです。
それは彼女自身の言葉にも
現れます。
「遠くで死にたくないひとが
 毎日たくさん死んでるときに、
 自分勝手に死んじゃうなんて…。
 考えない。
 もう死んじゃった人なんだもの。」

現実の情勢を肌で感じ、
それに身を任せて埋没している
女性の生き方が見え隠れします。

三治は召集の猶予の間に、
帯子を伴って伊豆半島へと
遊興にふけるのです。
妻が事故死して
その喪も明けぬうち、
その妹と遊び回るのですから、
箍が外れています。
しかしそれは戦地へ赴く
人間の心理として理解できます。
「もう危険が危険でなくなって来た。
 宇都宮(召集地)までは、
 何をしたって
 安全でしかないという気がする。」

三者三様の不安定な
心理状況を示すだけで、
表面的には
何も主張していない作品です。
しかし丹念に読み込むと、
作者が声高には語れなかった思想が、
霞の向こうに見えてくるような
構造になっているのです。

アンソロジーの中の一篇ですが、
石川淳の作品を
もっと読んでみたいと
思うようになりました。

(2019.2.12)

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