「山月記」(中島敦)②

李徴は作者自身の姿の投影か

「山月記」(中島敦)(「李陵・山月記」)新潮文庫

官を辞して詩の道を志した李徴。
しかし彼の詩は
世間には認められず、
彼の容貌は峭刻を極めた。
数年後、
生活に事欠くようになった彼は
再び官に仕えるものの、
彼の自尊心は
傷つくばかりであった。
ついに彼の精神は崩壊する…。

李徴はなぜ虎になったのか?
かつて私は前回記したように、
道徳的な教訓を引き出す方向で
考えていました。
しかし、数年前に
「かめれおん日記」を読んでから、
やや違った印象を
持つようになったのです。

「かめれおん日記」には
次の一節があります。
「近頃の自分の生き方の、
 みじめさ、情けなさ。
 うじうじと、内攻し、
 くすぶり、我と我が身を噛み、
 いじけ果て、それでなお、
 うすっぺらな犬儒主義
 (シニシズム)だけは残している。」

教師として職に就きながらも
小説家として自立することを
夢見た中島はしかし、
長編作品「北方行」に頓挫し、
挫折の苦悩を味わっています。
その姿は李徴と重なる部分が
少なからずあるように思われます。

もし、中島が文壇に
認められていなかった時代に、
自身の不遇を客観的な眼で捉え、
それを本作品に昇華させたとしたら、
本作品の読み方は
違ったものになるのではないかと
思うのです。

本作品に、
次のような一文があります。
「天に躍り地に伏して嘆いても、
 誰一人己の気持を
 分ってくれる者はない。
 ちょうど、人間だった頃、
 己の傷つき易い内心を誰も
 理解してくれなかったように。」

その声は人に届かず解されず、
誰もその真の価値を知らない。
そうした存在を
具象化したものだとすると、
森の奥で孤高を保ち、
他を激しく圧倒する
威厳ある姿を持つ「虎」は、
まさにうってつけだと考えられます。
だとすれば、本作品から
「人間性の喪失から生まれた悲劇」を
読み取ることは
困難になると思うのです。

もっとも、
作者の生き方や生き様を
重ね合わせるのは、
文学作品の背景の
理解を助ける一方で、
作者が作品に込めた主題を
かすませてしまう恐れもあります。
どちらをとるべきか、
読み手はその判断を
慎重に下す必要があるでしょう。

本作品の真の姿は
「人間の在り方を問う
純文学作品」なのか、
「作者の内面を主人公に投影させた
大仕掛けな私小説」なのか、
またはその両方なのか。
格調高い中島敦の傑作短編、
読み方はいろいろあっても
いいのでしょう。

(2019.2.20)

【青空文庫】
「山月記」(中島敦)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA