
そこは、異空間などではなく現実社会の縮図
「キップをなくして」(池澤夏樹)
角川文庫
改札口でキップをなくしたことに
気づいたイタル。
「キップをなくしたら
駅から出られないんだよ」と
声をかけてきたフタバコとともに
向かった東京駅。
そこには「駅の子」として
通学生を守る仕事をしている
子どもたちが生活していた…。
一種の異世界迷い込み小説なのですが、
単なるSFジュヴナイルではありません。
現実世界と完全に繋がっている
「改札口」で仕切られた、
現実の駅構内にある「異世界」なのです。
そこには電車に乗っていていて
キップをなくした少年少女が集められ、
半ば幽霊のような存在として、
通学途中の子どもたちを
電車事故やトラブルから守るという
役目を果たしているのです。
池澤夏樹の本作品、
「異世界迷い込み小説」としても
十分に面白いのですが、
ほんとうに味わうべきは、
そこに描かれている子どもたちの
「本当の意味での学びの姿」なのだと
考えます。
〔主要登場人物〕
※駅の子たち
イタル(遠山至)
…キップをなくし、駅の子となる。
おそらくは小学校高学年。
フタバコ(嫩子)
…イタルを駅の子として案内する。
イタルより年上の小学生。
キミタケ
…中学生。最年長として
リーダー的役割を担う。
ミンちゃん(みなこ)
…8歳の女の子。何も食べない。
ユータ
…鉄道マニアの小学生。
ロック
…優しい性格の小学生。
ポック
…小学生。気配をけして駅員からも
姿を見えなくすることができる。
比奈子・緑・馨・泉
…小学校低学年から中学年くらいの
女の子たち。
タカギタミオ
…イタルのあとに駅の子となった
男の子。自分の感情を
コントロールできないことがある。
フクシマケン
…不登校の中学生。
自らキップを捨て、駅の子となる。
※その他
「駅長さん」
…「殉職者」として、
駅を利用する子どもたちを守るために
力を発揮する。
武井さん・桑島さん
…東京駅員。
駅の子たちをサポートする。
桑島由美子
…大沼公園で駅の子たちを
サポートする。
東京駅の桑島さんの妹。
「ママ」
…ミンちゃんの母親。
「グランマ」
…ミンちゃんの祖母。故人。
本作品の味わいどころ・
子どもたちの本当の学びの姿①
自らを律していく生活
緩やかな支援はあるものの、
大人の管理や指導、援助のない
世界です。
いつ起きて、どこで何を食べて、
何をして遊ぶか、
本質的には自由なのです。
しかし駅の子たちは
「通学生を守る」という仕事を与えられ、
それを確実に履行するために、
自分たちで考えて
生活リズムをつくりあげているのです。
キヨスクでは何でもただで
もらえるのですが、
だからといってお菓子やジュースを
いくつも手に入れようとする
子どもはいません。
駅の子たちは
自然な形で自らを律しているのです。
大人たちでもなかなかできないことを、
異空間、そして「駅の子」という立場が、
子どもたちを自然な形で
成長させているのです。
これこそが本当の学びの姿です。
この、自らを律して生活していく
子どもたちの姿こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ・
子どもたちの本当の学びの姿②
自ら進んで行う学習
駅構内に存在しないものの一つが
学校です。
したがって駅の子たちは、
基本的には自学自習です。
年上の子どもが下の子に
勉強を教えたり、
書物を使って自分の興味のあることを
自発的に調べたりして学習しています。
学習とは本来、
人間の基本的な「権利」であり、
強制されるものではありません。
自ら求めて行うべきことなのです。
それは学ぶ楽しさにつながるはずです。
学んだ成果も形として現れるはずです。
何よりも達成感や充実感を
感じることができるはずです。
駅の子たちの姿には、そうしたものが
しっかりと現れているのです。
これこそが本当の学びの姿です。
この、自ら進んで学びを進めていく
子どもたちの姿こそ、本作品の
第二の味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ・
子どもたちの本当の学びの姿③
他者を意識した集団生活
駅の子たちは、
毎日朝起きてからから夜寝るまで、
十数人の集団生活を送っています。
当然、そこでは
わがままは通用しません。
お互いに折り合いをつけながら
生活するすべを、
自然に身につけていくのです。
好き嫌いを細かく注意するフタバコを
最初は煙たく感じていたイタルですが、
慣れてくるとそれが当たり前のように
感じられるようになってきます。
途中で加入したタカギタミオが
自己中心的な言動を繰り返しますが、
それも駅の子たちとの生活の中で、
次第に変容を見せていきます。
駅の子たちはみな、異年齢集団の中で、
それぞれが言動や振る舞いをわきまえて
生活しているのです。
これこそが本当の学びの姿です。
この、他者を意識し、
人間関係を円滑に進めようとする
子どもたちの姿こそ、本作品の第三の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。
狭い駅の構内(といっても
東京駅ですからかなり広いのですが)の
中での集団生活で、
駅の子たちはなんとのびのびと
生活していることか。
小説の中とはいえ、
教育現場にいるものとして
考えさせられる部分が多々ありました。
「駅の子」たちを見守る駅長の言葉です。
「人は社会の外では暮らせない。
仕事をしないわけにはいかない。
大事なのは、暮らしが楽しいことと、
仕事がみんなの役に立つことだ」。
舞台となっている駅構内は、
異空間などではなく、
現実社会の縮図なのです。
子どもたちが読めば、
きっとこの世界にすんなり
入り込めるのではないかと思います。
そして知らず知らずのうちに、
駅の子たちとともに
多くの学びを得るはずです。
中学校一年生に強く薦めたい一冊です。
もちろん大人のあなたも
ぜひご賞味ください。
〔本作品の時代設定について〕
本書は100%の児童文学ではありません。
50%は大人のために書かれた
ノスタルジック小説と考えられます。
本作品発表は2005年、
それに対して作品の時代設定は
1980年代後半(巻末解説には
その考証が書かれてあり、
本作品は1987年4月以降、
1988年3月以前と特定できるとのこと)、
執筆段階で実は18年前の
設定となっているのです。
イタルは作中に
昭和51年(1976年)生まれと
あるのですから、
2005年段階ですでに29歳。
そう思ってよく読むと、
描かれている風景は
懐かしいものがいっぱいです。
おいしそうな駅弁の数々、
改札の駅員の入鋏作業、
寝台特急、青函連絡船、…。
パソコンもスマホもなく、
私たちの生活が無機質なものに
囲まれ切ってしまう以前の
日本の姿があります。
(2019.3.13)
「人の生と死」に真正面から向かい合った児童文学
東京駅構内で「駅の子」として
暮らすことになったイタル。
気がかりなのは
いつも元気がない女の子の
ミンちゃん。
「なんでご飯を食べないの?」
というイタルの問いかけに
彼女は、
「私、死んでるの」と答える。
衝撃を受けたイタルは…。
本作品について、
単なる「異世界迷い込み小説」と
見るべきではなく、
子どもたちの本当の意味での学びの姿の
提示と捉えるべきであることを、
上に記しました。
実はそれだけではありません。
「人の生と死」に真正面から向かい合った
作品でもあるのです。
ミンちゃんは、イタルたちと同じように
「駅の子」として生活している
8歳の女の子ですが、
他の子どもたちとちょっと違います。
何も食べずに生活しているのです。
実は彼女は不幸にして
鉄道事故で命を亡くした子なのです。
成仏することができずに
現世に止まっている、
いわば「幽霊」のような存在です。
物語の後半は、
ミンちゃんが現世に別れを告げ、
天国へと旅立つ決意をするまでが
描かれています。
ミンちゃんを見守る
駅長とグランマの口を借りて、
作者・池澤は自身の「死生観」を
語っているのです。
駅長は自らの生き方と死に方を
振り返って、子どもたちに
「死の在り様」を伝えようとします。
「現世から預かってきたものを返して、
他のたくさんの魂と一緒になって
しばらく暮らし、
互いに混じり合う。
やがて自分は自分だという気持ちが
薄くなって、
ぜんたいの中に溶け込んで、
長い歳月の後、別の生命となって
また生まれ変わる」。
ミンちゃんのグランマは、
「死の経験者」として
人間の心の姿を話して聞かせます。
「人の心はね、
小さな心の集まりからできているの。
たくさんたくさん
小さな心が集まって、
一人の人の心を作っている。
だから人が何か決める時は、
その小さな心が会議を開いて
相談したり議論したりして決める」。
そしてミンちゃんは
自らの死を受け入れます。
「他の子には
何十年もの人生があるのにと思った。
でも今はわかります。
みなこの心の中の会議が
円満に終わって、
八年の生命を
八年分として受け取って、
不満もなく向こう側へ行くのね」。
ミンちゃんが自分の死を
イタルに話す場面、
ミンちゃんがイタルとともに
ママに会って別れを告げる場面、
ミンちゃんがグランマとともに
旅立つ場面、
すべて涙が溢れてきて
止めようがありません。
人生の折り返し地点を越えた私などは、
否応なく考えざるを得ないのです。
「自分は死ぬ間際に納得できるように、
人生を生き切っているのだろうか」と。
児童文学でありながらも、
「人の生と死」に
果敢に切り込んだ本作品、
中学生に、そして大人のあなたに
強く薦めたい一冊です。
(2019.3.13)
〔関連記事:池澤夏樹作品〕
「双頭の船」
「春を恨んだりはしない」
「この世界のぜんぶ」

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