「源叔父」(国木田独歩)

愛情は学ばなければ身に付かない

「源叔父」(国木田独歩)(「武蔵野」)新潮文庫

妻と子を亡くした源叔父は、
ある雪の日、佐伯の町の通りで
「紀州」と呼ばれる乞食の子と出会う。
亡くなった子と
二つ三つしか違わない彼を、
源叔父は引き取って
育てることにする。
ある日、仕事を終えた源叔父が
家に帰ると…。

読み終えて胸の痛くなる作品です。
救われる部分が何もありません。
源叔父の思いは
紀州には何一つ届かないのです。
紀州は家を出て乞食の生活に舞い戻り、
源叔父は自らの命を絶ちます。

妻と子を失い、
独り身となった源叔父は、
笑顔も忘れ、人とも交わらず、
孤独な生活を送っていました。
それが紀州との出会いにより、
変化が生じたのです。
源叔父は愛情を注げる対象を
求めていたのです。
紀州もまた一人。
誰も助けるものもなく、
路上で乞食生活を送っていたところを
源叔父に拾われて、
温かい飯を食えるようになったのです。
では、源叔父の深い愛情が
なぜ紀州には届かなかったのか?

かつて読んだときには、
紀州は路上での生活の方が
性に合っているからではないかと
考えていました。
ワトソン夫人の家で
紳士的な生活を強要された
ハックルベリー・フィンが
そうであったように。
でも、源叔父の生活とて、
決して余裕のあるものではなく、
せいぜいが夜露に濡れずに
眠ることができるくらいの
ものだったはずです。
性に合わないはずはありません。

次に読んだときには、
「我が子の代わりとしての愛情」は
決して本物とはなり得ず、
紀州の心に響かなかったのでは
ないかと考えました。
誰かの代わりとして愛されるのは、
誰しも違和感を感じるものです。
しかし、そうした感情表現は、
本作品には見当たりません。

何度か読み返しました。
おそらく紀州には愛情というものが
理解できなかっただけなのでしょう。
生まれてすぐさま乞食として育ち、
何も学ぶ機会を得られなかったのです。
愛情は自然に理解できるものでは
ないのです。
学ばなければ愛情を理解することも、
愛情を正しく受け取ることも、
愛情を他者に与えることも
できないのかもしれません。

世の中を見渡したとき、
源叔父とは逆の例が
あまりにも多いことに
愕然とさせられます。
実の子に愛情を注げない親の
何と多いことか。
やはり愛情は学ばなければ
身に付かないのでしょう。

(2019.4.8)

Dimitris VetsikasによるPixabayからの画像

【青空文庫】
「源叔父」(国木田独歩)

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