私たち日本人がこの百数十年の中で失ったもの
「家守綺譚」(梨木香歩)新潮文庫
私・綿貫征四郎は
亡き友人・高堂の家に
「家守」として住まう物書きである。
ある風雨の夜、
庭のサルスベリの花が
やけに硝子にあたって音を立てる。
夢うつつの中、
高堂が現れ、こう告げる。
「サルスベリが
おまえに懸想している」…。
梨木香歩の小説世界の面白さ、
つまり「異なもの」が
満ち溢れた幻想的な世界、
それが存分に表れている作品です。
家主に懸想するサルスベリなどは
まだ序の口で、
河童、狐、狸、人を惑わす竹の花、
白竜、人魚、子鬼、…。
物の怪でもない、妖精とも違う、
「異なもの」が次から次へと登場します。
しかし、それら「異なもの」は
決して非日常的なものとして
浮き上がっているのではなく、
あたかも日常の一部として
溶け込んでいるのが
梨木作品の魅力なのです。
死んだはずの友人・高堂
(おそらくは幽霊)が
掛け軸の絵の中から現れても
綿貫は動じません。
河童が現れても狸に化かされても
白竜が誕生しても慌てません。
綿貫だけでなく編集者の山内、
隣のおばさん、近所の住職まで
当たり前のように
それらと接しているのです。
作品中には
明確に記述されていませんが、
おそらく舞台は明治の京都郊外。
維新以来の富国強兵・
近代化政策によって古いものが
切り捨てられた時代の最中の、
古いものがもっとも残っていた
地域なのではないかと推察されます。
日本人はもともと森羅万象の中に
神を見いだしてきた民族です。
それはこうした「異なもの」と
私たち日本人が共存していたことを
意味するのでしょう。
日本各地に残っている
妖怪・物の怪等の民話や伝承が
それを伝えています。
いや、「異なもの」とは
現代人である私たちの尺度であって、
かつてはそれらを「異」とは
認識していなかったのかも知れません。
身のまわりの自然の一部、
という感覚だったのでしょう。
時代は明治からさらに百余年が過ぎ、
二重硝子アルミサッシで
完全気密化された現代の住宅では、
「異なもの」どころか
蚊一匹現れただけで
排除しにかかるのが普通となりました。
豊かな生活と引き換えに、
私たち日本人が
この百数十年の時間の中で
失ったものの大きさに驚かされます。
本作品は
「異なもの」を描いたのではなく、
かつての豊かな日本の自然を再現し、
提示したものなのかも知れません。
山の木々の緑色が
次第に深くなるこの季節、
考えさせられてしまいました。
※時代背景について
作者が作品中で触れていないのは、
読み手に想像の余地と
考える楽しみを
残したものと思われます。
そう考えたとき、
文庫本の裏表紙の作品紹介文に
「本書は、百年まえ、…」と
書かれてあるのはいかにも無粋。
出版社と編集者は
細心の気配りをして
出版してほしいものです。
(2019.5.28)