「家守綺譚」(梨木香歩)②

おまえは人の世の行く末を信じられるのか

「家守綺譚」(梨木香歩)新潮文庫

前回取り上げた「家守綺譚」。
冒頭の、
サルスベリが綿貫に懸想をした際、
「木に惚れられたのは初めてだ。」
という綿貫に対し、
高堂は「木に、は余計だろう。
惚れられたのは初めてだ、
だけで十分だろう。」と一本取ります。
二人のやりとりの多くは、
このように綿貫を
高堂がやり込めるものであり、
その関係性が本作品の魅力を
つくり出しています。

しかし「セツブンソウ」の章での二人は
真剣勝負に似た緊張感がありました。

「文明の進歩は、瞬時、
 と見まごうほど迅速に起きるが、
 実際我々の精神は深いところで
 それに付いていって
 おらぬのではないか。」

綿貫は近代化の進む
世の中で生きているのですが、
自らの精神はそれに追いついていない、
古い時代を背負って生きている
人間であることを自覚しています。

一方、綿貫の友人・高堂は、
その身がすでに朽ちているためか、
いつも全てに悟りきった物言いです。
その高堂に綿貫は言い放ちます。
「おまえは人の世を放擲したのだ。」
高堂は言い返します。
「おまえは人の世の
 行く末を信じられるのか。」

此岸にいる綿貫に対して
彼岸にある高堂の切り返した
この言葉こそ、
現代を生きる私たちに向けられた、
作者からの問いかけではないかと
思えるのです。

本作品の舞台である
明治の世からすでに百余年、
文明の進化はさらに加速しています。
かつて自然の一部だった
「異なもの」を切り捨て、
そして自然そのものまで
大きく切り崩し、
私たちが手に入れたものは
生命の宿らない無機物ばかりです。

そして国内には原子力発電所、
国外には傍若無人な
隣国のミサイルなど、
無機質で巨大な脅威が
ひしめくようになってしまいました。
本作品に現れる「異なもの」は
人の存在に大きな影響を
与えないものばかりですが、
現実の現代社会に実在する
「異なもの」は、人間の存在自体を
脅かすものばかりです。

高堂の問いに対し、
綿貫は「追い詰められた
ウサギのような心境」で考えます。
「人の世はもっと先までゆくだろう。
 早晩鬼の子など
 完全に絶えてしまうだろう。」

人の世がさらに先まで
突き進んだとき、
完全に絶えてしまうのは
一体何だろう?
などと難しく考える必要は
ないのかもしれません。
夏の夜を虚心に楽しむことこそ
正しい読書の在り方です。

(2019.5.28)

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