「山椒魚」(井伏鱒二)②

最終場面では明らかに二匹が同等になっている

「山椒魚」(井伏鱒二)
(「山椒魚」)新潮文庫

岩屋に蛙を閉じ込めた山椒魚。
お互いにいがみ合う二匹。
翌年も口論を続けていたが、
さらに一年後の夏は、
お互いに黙り込み、
自分の嘆息を
相手に聞かれないようにしていた。
ところが蛙が
不覚にも洩らした嘆息から…。

本作品、文庫本にしてわずか11ページ
(新潮文庫版)の短篇でありながらも
読みどころは多々あります。
その中でも私が好きなのは、
やはり最後の場面です。

ここで注目したいのは、
語り手の使っている言葉です。
「二個の鉱物は、
再び二個の生物に変化した。」の
表現に見られるように、
山椒魚と蛙の立場が、
ここから変化しているのです。
以下、「蛙」の表現が消え、
「相手」となっています。
それまでは岩屋の中の
狭い世界においての
強者・山椒魚と弱者・蛙という
構図だったのですが、
最終場面では明らかに
二匹を同等に描いているのです。

山椒魚の言葉にも変化が見られます。
「もう、そこから
降りてきてもよろしい」。
もはや蛙を
閉じ込めようとする気持ちが失せ、
蛙に対して申し訳ない気持ちが
見え始めているのですが、
まだここでは上から目線です。
詫びる言葉ではありません。
「それでは、もう駄目なようか?」
ここでなぜか持って回った
不自然な言い方が現れます。
「おまえは今どういうことを
考えているようなのだろうか?」
前言以上に、かなり不自然な
物言いとなっています。
蛙に対して済まない気持ちを
持っているものの、
それを謝罪としてストレートに
表すことができない分、
婉曲な言い回しになっていると
考えられます。

「今でもべつにお前のことを
おこってはいないんだ」。
最後の蛙の一言にも、
いろいろなものが凝縮されています。
謝罪はないものの、
その気持ちが表れている
山椒魚からの声かけに対して、
「今でも」と付け加えることによって、
それに応えているのだと
思われます。
過去を清算し、両者が和解した瞬間です。

和解によって山椒魚の気持ちも
救われるのでしょうが、
蛙には死期が近づいているのです。
蛙の最後の一言以後のことは
書かれていないのですが、
まもなく山椒魚は
再び孤独な存在となるはずです。
一度仲間ができた後の、
再びの孤独です。
以前よりもそれは
深く大きくなるはずです。
ここでもやはり
「優しさ」と「おかしみ」の後方に、
「悲しみ」を潜ませています。

高校生になれば出会えるのですが、
ぜひ中学校段階で
一度読むことを薦めたい作品です。
中学生で読んだ感想が、
高校現代文の授業で
大きく変わるかも知れないからです。

(2019.6.25)

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