道徳や倫理、感受性の一切が欠落している世界
「事業」(安部公房)(「壁」)新潮文庫

不潔……? とんでもない。
近代的設備のもとで、
高温加熱の過程を経て製造された
鼠肉ソーセージに、
いかなるバクテリヤが
留りうるというのか。
まさに蒙昧の言である。
残るところは気分にすぎぬ。
だが気分……気分とは一体…。
粗筋に替えて、一節を抜粋しました。
安部公房の「事業」は
わずか8頁の掌編なのですが、
知らずに読み進めると、
ぞっとする結末にたどり着きます。
宗教家(司祭)であり
食肉加工業の事業主でもある「私」が、
有能な探偵小説家である
「彼の中の彼」に宛てた書簡として
著された作品なのです。
書簡の中で、「私」は「彼の中の彼」に
何を要請したのか?作品は
大きく三つの部分に分けられます。
一つめの部分は、
鼠肉ソーセージ製造の
優秀さの説明です。
確かに鼠の肉であれ何の肉であれ、
栄養に富んで味も美味いのであれば
あとは気分の問題かもしれません。
犬を食べる国もあれば
カタツムリを食材にする国もあります。
汚い沼に棲むザリガニでさえ
食べれば美味です。
30年ほど前に私の住む県の一町村で
地域おこしとしてカラスの肉の
食用化を図ったことがありました。
下処理すれば
かなりいける味だったようですが、
地域出身の都会生活者から
「恥ずかしい」とクレームが殺到し、
中止に至った事案がありました。
やはり「気分」の問題なのでしょう。
ところが二つめの部分から、
「気分」では
済まされないことになってきます。
この司祭はあろうことか、
屍体をもらい受け、それを食肉加工し、
秘密裏に出荷していることが
明かされます。
その宣伝文句は、
一見合理的ですらあります。
「蛋白源を鼠肉から人肉へ切り替えた」
「より豊富で採取に便利」
「一段と口当たりのいい」
「地球が工場」
「元来神によって
無料で奪われるべきはずのところを、
我らの手によって有料化される」
「珍味を食通に供給しうる」…。
ここまでは現在の「事業」の「経過報告」と
その優秀性の「PR」に過ぎません。
書簡の最も重要な部分は、
三つめの部分に書かれてある
「要請」なのです。
「私」は「彼の中の彼」に
何を要請しているのか?
もちろん「次の段階」です。
おぞましい限りですが、
「私」の説明は論旨が明確で、
論理的であり、説得力を伴うものです。
ただただ「道徳」や「倫理」、
あるいは「人間としての感受性」の
一切が欠落しているだけなのです。
何かを暗喩しているものと
考えられますが、いろいろなことが
読み取り可能な作品です。
最初の一歩を受け入れてしまえば、
次から次へと段階を踏んで、
気づいたときには恐ろしい結末へと
突き進んでいるという
読み方もできるでしょう。
また、どんな悪事にも
説明は可能であり、
論理などというものは
恐ろしいものでしかないという
解釈もできます。
1950年に発表され、
オムニバス作品集「壁」の
最後の一篇として編まれた本作品。
短いながらも
辛みの効いた味わいがあります。
他の五篇とともにご賞味ください。
※「彼の中の彼」と表記されている
探偵小説作家とは
何を表しているのか?
単純に「人殺しを素材として
扱っているから」なのか、
あるいは具体的な人物を
思い浮かべて書いたのか?
もしそうだとすればそれは一体誰?
ここにもいろいろな疑問が
潜んでいます。
〔本書収録作品〕
S.カルマ氏の犯罪
バベルの塔の狸
赤い繭
洪水
魔法のチョーク
事業
(2019.6.30)

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