「騎士団長殺し」(村上春樹)③

作品の構成様式は、「容れ物」に過ぎない

「騎士団長殺し(全4冊)」
(村上春樹)新潮文庫

姿を消した少女まりえを探す
「私」に対し、
騎士団長は言った。
「簡単なことだ。
あたしを殺せばよろしい」。
「騎士団長殺し」が完成したとき、
部屋の床から出現した
「穴」と「顔なが」。
まりえ救出のため、
「私」は「穴」への侵入を試みる…。

村上春樹の長編作品を読み終えた後は、
なかなか現実世界に
戻ることができません。
「羊をめぐる冒険」にしても
「世界の終りとハードボイルド・
ワンダーランド」
にしても
「1Q84」にしても、すべてそうでした。
それは村上作品が、一つの共通する形を
持っているからなのです。
その共通の「形」とは、以下の流れです。

①主人公が何かを喪失する、
 あるいは喪失していたことに気付く。
②主人公がそれを探そうとして
 行動しはじめるが、
 幾多の困難が待ち受けている。
③敵か味方かわからない
 いくつかの謎めいた存在が現れ、
 主人公の行動に干渉する。
④やがて主人公は謎めいた存在の蠢く
 非現実世界に
 否応なしに引きずり込まれる。
⑤そして現実世界に戻ってきたとき、
 世界は変わっていないようで
 何かが変わっている。

そうした「村上春樹的作品構成」について
ネット上の一部では
「マンネリ」だの「自己複製」だのという
否定的な見解が目立ちます。
私は決してそうではないと考えます。
作品の構成様式は、いわば
「容れ物」に過ぎないと思うのです。
大切なのはそこに入っている「本質」
(テーマ、あるいはメッセージ)であり、
それこそを読み味わうべきものだと
思うのです。

近年の村上作品において、
かつてと比較して大きく異なるのは、
結末に救済が見られることです。
20世紀中に著した作品のように、
「再喪失」あるいは「喪失の再確認」で
終わっていないのです。

本作品も、
「私」が日常から非日常へと移ろい、
そして再び日常に帰るのですが、
そこに明確な救済が見られます。
特に本作品の場合、
子どもを持った「私」が描かれています。
ごく一般的な(何を一般的とするかは
さておいて)家庭の中の父親の姿であり、
村上作品では異例です。

数多くの異質な状況をくぐり抜け、
再び日常に戻ってきた「私」。
それは元の状態に戻ったのではなく、
変容した魂を持った「私」なのです。
だからこそ、
「私」の経験した「非日常な世界」に
意味が生じてくるのです。

(2019.8.2)

Jonny LindnerによるPixabayからの画像

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