「ニライカナイの空で」(上野哲也)②

現代は子どもたちが鍛えられていないのではないか

「ニライカナイの空で」
(上野哲也)講談社文庫

前回、本作品を取り上げ、その中で
「新一の状況は
悲惨であるにもかかわらず、
悲壮感は一切ありません。
一陣の風が吹き抜けるような
爽快感をもって
読み終えることができました」
と書きました。
悲壮感がないのは、
登場人物に悪人がいないからです。

まず野上家で新一と同い年の竹雄。
大人とやり合う場面から想像すると、
かなりスレた子どものようですが、
けっしてそうではありません。
気難しい一面のあるものの、
裏表なく、新一を心から友達として
接しているようすが伝わってきます。

次に、野上家のおばさん、朝子、史郎。
みんないい人たちです。

そして野上源一郎。
昨日は「酒飲みの荒くれ男」と
書きましたが、決して
それだけではありません。
ラストシーン、
新一が自らの意志で
父親のもとへ帰る日の、
駅のホームでのこと。
源一郎は新一にあるものを渡します。
そこに源一郎の父親代わりとしての
愛情が表れているのです。
新一に対しての、
強圧的な振る舞い、荒々しい態度も、
深い愛情に
裏打ちされてのことなのです。

それにしても現代は、
まわりの大人たちが優しすぎて、
子どもたちが鍛えられて
いないのではないかと思うことが
たびたびあります。
確かに体罰はいけません。
虐待などもってのほかです。
でも…、温室で育った
植物のような子どもたちが、
あまりにも多すぎるのです。

PTAで、「うちの子どもは
叱らないで育てて下さい」と言ってくる
保護者が珍しくなくなりました。
気持ちは十分わかります。
でも、いつもこう問いかけています。
「それではあなたのお子さんは、
いつ叱られる経験を
済ませるのですか?」

一生、叱られないで
生きていけるのであれば、
子どもの頃に
叱られる経験など必要ないでしょう。
しかし、世の中の出れば、
優しく教え諭してもらえることなど
皆無でしょう。
頭ごなしに叱られる、いや、
理不尽な理由で責められることだって
山ほどあります。

親にせよ、教師にせよ、
大人の役割は、
子どもを自立させることに
あると思うのです。
温室育ちの植物は、
そこから出して地植えすると
すぐ枯れてしまいます。
大地にしっかりと根を張り、
雨風を受け流すことのできる
しなり強さをもった植物でなければ
種を残せないはずです。
自分の力で世の中の荒波に耐え、
自分の力でたくましく歩いて行ける、
そんな新一や竹雄のような
子どもたちを育てていきたいものです。

(2019.8.11)

lupin0333さんによる写真ACからの写真

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