中勘助は一流の教育評論家だ
「銀の匙」(中勘助)小学館文庫

日清戦争が始まり、
周囲は戦争の色が濃くなり
殺伐としてきた。
「私」は先生や級友、兄の
無教養に内心辟易としながら、
一人絵を描いたり
唱歌を歌うことを好んだ。そして
筋道の通らないことに対しての
いらだちを感じ始める…。
「銀の匙」後編では、
「私」はさらに成長し、
戦時色で染まる世の中を
冷めた視線で見るようになります。
この後編には、現代の教育に通じる
大事な点が数多く含まれています。
「蚕が老いて繭になり、
繭がほどけて蝶になり、
蝶が卵をうむのをみて
私の知識は完成した。
私は常にかような
子供らしい驚嘆をもって
自分の周囲を眺めたいと思う。」
そうなのです。自然科学は
事実を「知っている」だけでは
いけないのです。
見る、聞く、触る、実感する、
そうした実体験を伴った知覚が
本当の「知識」なのです。
理科教師としては、
中勘助のこの一文を常に忘れないように
心がけています。
きちんとできているかどうか
自信はないのですが。
「わずかに十一か十二の子供の
たかの知れた見聞、
自分ひとりの経験に照らしてみても
そんなことはとてもそのまま
納得ができない。
私は修身書は
人を瞞着するものだと思った。」
修身とは今でいう道徳です。
つまり、本音を話さず
きれい事を並べるだけの道徳授業など、
ごまかしに過ぎない、と
言っているのです。
これもまさしくその通りです。
現在実施されている
道徳の教科化による検定教科書が、
「人を瞞着するもの」でないことを
祈っているのですが…。
こう見ると「私」は、
いや少年時代の中勘助は、
すでに一流の教育評論家の
資質を持っていたのではないかと
思ってしまうのです。
少なくともTVでタレント化している
教育評論家の方々よりも、
その視点は本質を突いています。
さて、主人公の「私」ですが、
やはり集団の中で周囲と協調して
やっていくタイプではありませんが、
成長につれ確固とした自我が
存在しているのがわかります。
自分の考えをしっかりと持ち、
周囲の人間を観察しているのです。
友だちや教師、そして兄への
批判的な視線さえ垣間見られます。
純粋な子どもの目線でとらえた世界を
表現したのが「前編」であるならば、
「後編」は自我をもった
小さな人間のとらえた世の中を
具現化したとも言えるでしょう。
前編・後編、ともに後世へ伝えるべき
美しい日本語の宝箱です。
中学生にぜひ読んでほしいと願う
一冊です。
(2019.8.29)

【青空文庫】
「銀の匙」(中勘助)