「もう一人の私」(吉屋信子)

決して安直なホラー小説ではありません

「もう一人の私」(吉屋信子)
(「百年文庫044 汝」)ポプラ社

生後まもなく死んだ双子の姉が
いたことを知った「わたくし」。
戒名は「夢幻秋露童女」。
その姉は、
「わたくし」が高校生のとき、
映画館の薄暗いトイレで
最初に現れた。
私そっくりの姉は
まさに「もう一人の私」。
彼女が再び現れたのは…。

誰でも自分という人間が
愛おしいはずです。でも、もし
自分とそっくりの人間が現れたら…、
みな一様に恐怖するようです。
いわゆる
ドッペルゲンガーというものです。
ドッペルゲンガー現象は、
肉体から霊魂が分離、
有形化したものとして、
古くから伝説や迷信などで
語られています。
また、死の予兆として
捉えられているようです。
したがって、
古今東西の文学作品にも
いくつか登場しています。

有名なところでは
ポーの「ウィリアム・ウィルスン」。
主人公が「悪」、
ドッペルゲンガーは「善」なのですが、
やはり主人公は身を滅ぼします。
ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」も、
肖像は一種のドッペルゲンガーと
見ることができます。
ここでも主人公・グレイは
悪を為したために
自らの命を縮めてしまいます。

この2作品と比較すると、
本作品の「わたくし」は
何ら悪事をしてはいません。
ごく普通の少女です。
ではなぜ彼女は
ドッペルゲンガー(姉)を見たのか?

生まれてすぐに死んだ姉に対して、
生きて幸せを
享受していること自体を、
「わたくし」は申し訳なく
思っていたのだと思います。
なぜなら姉が現れたのは
二度とも「わたくし」が
幸せを感じた瞬間だからです。
一度目は、戦争が終わって友達と
映画を見に行ったとき、
そして二度目は、
「わたくし」が夫と結婚した初夜の晩。

この二度目に現れた場面は、
手に汗を握る展開です。
このまま生きている「わたくし」と
死んでいる姉が
入れ替わってしまうのかと
はらはらしました。
後味の悪い読後感になるかと
思ったところで意外な結末。
決して安直なホラー小説では
ありませんでした。

「わたくし」はそれ以来、
自分の誕生日の早朝に、
誰にも黙って姉の墓参りを
することにしたのです。
自分の誕生日を祝ってもらう前に、
姉の命日を忘れずに供養する。
それは生きていることに感謝し、
与えられた生を全うすることに
ほかなりません。

作者・吉野がここで描きたかったのは、
人としての生き方・在り方なのかも
知れません。だとしても、
秋の夜の読書に似合いの、
怪談ではあります。

(2019.9.6)

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