信子はなぜ俊吉と結婚しなかったのか?
「秋」(芥川龍之介)
(「百年文庫006 心」)ポプラ社
まるで暗号で書かれたかのような
近代心理劇、と昨日紹介した本作品。
私は、今回再読するまで、
姉の信子が妹の幸せを願い、
自ら身を引いたものとばかり
思っていました。
妹思いの優しい姉の信子像を
描いていたのです。
そうなると問題になるのが、
「彼女の結婚は果して妹の想像通り、
全然犠牲的なそれであろうか。
そう疑を挾む事は、
涙の後の彼女の心へ、
重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。
信子はこの重苦しさを避ける為に、
大抵はじっと快い
感傷の中に浸っていた。」の
一連の文章です。
明らかに信子は自問しています。
かつて初読したとき、
その意味がわからず、
余計な一文と感じていました。
しかし、短編の名手芥川が、
たった一行でも
余分な文章を書くはずがありません。
これは必要な一文なのです。
だとすると、信子は妹のために
身を引いたのではなく、
自分自身のために
俊吉と結婚しなかったと
考えるべきなのです。
では何のため?
ここで信子という女性を考えてみます。
「彼女は創作を始める前に、
まず世間の習慣通り、
縁談からきめてかかるべく
余儀なくされ」ていて、
それを受け入れています。
また、結婚後も夫から
小説書きをやめるように言われ、
すぐやめています。
信子は争うことも抗うことも
よしとしない女性なのでしょう。
「トルストイズムに
敬意を感じている」という一節が
それを裏付けています。
信子は妹・照子が俊吉に宛てて書いた
手紙を読んだとき、
きっぱりと照子と争わない手段を
考えたのではないでしょうか。
それが俊吉以外の男性との
結婚だったと思われます。
そして同時に信子は
新しい時代の女性でもあります。
「女子大学にいた時から、
才媛の名声を担っていた。
彼女が早晩作家として
文壇に打って出る事は、
殆誰も疑わなかった」と
冒頭にあるように、
信子は才女なのです。
文学に秀で、社会進出も考えています。
当時としては先進的です。
だからこそ、
照子に譲った俊吉への思いも
消すことができず、
夫に止められた文学への未練も
十分に持ったままなのでしょう。
信子の心の奥底に
静かに燃えていた想い。
それは俊吉と再会しても
熱く燃え上がることは
ありませんでした。
それは埋み火のような想念とでも
いうのでしょうか。
(2019.9.15)
【青空文庫】
「秋」(芥川龍之介)