「昆虫の秩序」(ギャス)

読み手はその狂気と正常の狭間に投げ出される

「昆虫の秩序」(ギャス/楢崎寛訳)
(「集英社ギャラリー世界の文学17」)
 集英社

引っ越した家には
何の不満もなかった。
ただ一点、毎朝一階の
絨毯のあちこちに
黒い虫の死骸が
転々としているのが
「私」は気になった。
よく見るとそれらの屍骸は
ゴキブリであり、
「私」はぞっとする。
しかし調べていくうち「私」は…。

一家の主婦「私」の手記の形で綴られる
短編小説です。
おそらくは文庫本サイズに直せば
十数ページ程度でしょう。
冒頭にはゴキブリの死骸の散乱に対して
困惑する主婦の心境が綴られます。
「いったいなにかしらと
 不思議に思いながら
 身を屈めましたが、
 ゴキブリだと気づく前に
 身を震わせて反射的に
 手をひっこめました。」

しかし、
すぐさま「私」の心は変わります。
上記の粗筋に続く部分は、
「私にとって虫たちは
 新しい経験であり、
 今ではありがたい経験だった
 という気もしています。」

「私」は続いてゴキブリの死骸の
美しさに魅せられます。
昆虫は外骨格であるため、
死後に腐るのは内部だけであり、
外形は保存されるのです。
そして内骨格である
「人間」の死に対して
悲哀を感じるのです。
「私は情けなくて泣きたくなります。
 私たちは筋肉、水分、脂肪といった
 朽ち果てるものを
 愛さざるを得ないのですから。」

「私」はさらにゴキブリの死骸を
細かく観察し、
そこに秩序を感じるようになるのです。
どくろの形をした頭部、
腹部を帯状に仕切っている線、
黒っぽい外皮の艶、
幾何学的な精巧さを示す複眼。
もはや冒頭に示された恐怖の感情は
微塵も見られなくなります。
「このような秩序に対して
 嫌悪の気持を抱くことはできません。」

ついには「私」は
「女であること・主婦であること」と
「ゴキブリを研究する自分」との間に
整合性を見いだせなくなるのです。
完全に精神分裂的な症状が見られます。
「どちらがより
 驚くべきことなのかわかりません。
 ゴキブリにそのような秩序を
 見いだすことか、
 そのような考えを女が抱くことか。」
「奇妙なことで不条理なことです。
 私はこの家の主婦なのですが、
 私がおののいているこの視点は
 神の視点なのです。」

普通の人間の感覚から判断すれば、
彼女の思考は狂気そのものです。
しかし、
人間界とは異なった「秩序」に接し、
現実と乖離しながらも
その美しさについて
論理的な説明を試みる「私」の意識は、
極めて正常なものといえるでしょう。
読み手はその狂気と正常の狭間に
投げ出された格好になる
不思議な一篇です。

※本作品の原題は Order of Insects 。
 1979年出版の杉浦銀策氏の訳題では
 「ゴキブリに魅せられて」でした。
 直訳である「昆虫の秩序」の方が
 センスが感じられます。

※前回取り上げたベストセラー本
 「昆虫はすごい」を地で行くような
 短編小説です。
 アメリカ文学の世界は広大です。

(2019.10.5)

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