どんな形であれ、感動がないはずがありません
「ある結婚式」(獅子文六)
(「百年文庫003 畳」)ポプラ社
ずっと媒酌人を
断り続けてきた「私」は、
ある知人からの依頼だけは
断り切れずに引き受けてしまう。
結婚する当人たちの
希望を聞き入れ、
小さな宴を自宅の一室で
執り行うことにした。
いよいよその当日…。
とあらすじを書いたものの、
何か突拍子のない事件が
起きるわけではありません。
ささやかな結婚式の風景を
切り取っただけの作品です。
この作品の発表時(1963年)でさえ、
結婚式場での挙式が
一般的になっていたはずですが、
なぜ媒酌人の自宅で
こぢんまりと行うのか?
若い当人たち(といっても、
今から半世紀前ですので、
私の父親くらいでしょうか)が
大がかりな式を拒んだからです。
媒酌人である「私」は、
そんな若い二人の考えを推し量り、
極めて簡素な式を開くのですが、
途中で指輪交換の儀を忘れてしまい、
式の最後にそれを行ったのです。
すると新郎の指がおかしいほど震え、
指輪が新婦の指に収まるまで
たいそう時間がかかります。
「そのときに、私は、
非常な満足感を味わった。
いくら簡単でも、式は式だ。
若い二人は、やはり、
感動しているのだ。
ざまア見ろ、といったような、
気持ちだった。」
ふと、自分たち夫婦の結婚式を
思い出してしまいました。
私は、早く結婚した友人たちから、
式の招待客の顔ぶれについての不満
(よく知らない親戚や
父親の職場の関係者ばかりが多く、
本当に報告したい
自分の友人の数が少ない)を
よく聞いていました。
親に費用を出してもらい、
親が子どもの結婚の披露をする
宴なのですから当然なのですが、
そのことに私自身も
納得できないものを感じていました。
自分たちの結婚は
自分たちに一番関わりのある人たちに
祝ってもらいたいと考え、披露宴は
自分たちの貯金をはたいて行い、
自分たちで計画して開きました。
今思い返すと冷や汗ものです。
常識知らずだったと反省しています。
でも、だからこそ、
並々ならぬ感動を味わったことを
覚えています。
結婚式は一生に一度
(であるべきなのでしょうが、
昨今はそうもいかない状況だと
思います)のものです。
どんな形であれ、
感動がないはずがありません。
掌編ともいえる短い作品なのですが、
終末の爽やかさが何ともいえません。
獅子文六、
芥川より一つ年下の明治の作家です。
注目すべき作家だと思います。
(2019.10.22)