訳者によって作品から受ける印象が大きく異なる
「判決」(カフカ/丘沢静也訳)
(「変身/掟の前で」)
光文社古典新訳文庫
近年、海外の名作の新訳が、
各出版社から出されています。
これらは現代の私たちが
違和感を感じない日本語訳であり、
新訳が出る度に買い求めています。
訳者が変われば作品から受ける印象も
大きく変わります。
さて、昨日紹介したカフカの「判決」。
こちらは光文社古典新訳文庫版の
丘沢静也訳です。
本作品も柏原訳と丘沢訳とでは
作品の持つ雰囲気が
かなり変化しています。
昨日取り上げた本文中のポイントで
比較してみます。
父親がゲオルグを詰問する
最初の部分です。
「商売でもいろいろなことが
わしの耳に入っていない」(柏原訳)
「店では私の
関知しないことがある」(丘沢訳)
柏原訳の方が
強く問い詰めている感じがあります。
続いてゲオルグの友だちについてです。
「おまえにはペテルブルグには
友人なんかいないんだ」(柏原訳)
「本当にペテルブルグに
そんな友だちがいるのか」(丘沢訳)
やはり柏原訳が断定的な口調です。
さらにその友だちについての認識を
一転させる場面です。
「おまえの友だちのことは
よく知っておる」(柏原訳)
「あれ(ゲオルグの友だち)は
なんでも知ってる」(丘沢訳)
ここは印象というよりは、
意味そのものの食い違いが見られます。
そして父親の衝撃的な一言です。
「もう何年もまえから、
おまえがこの疑問を
もってやってくることを、わしは
待ちかまえていたのだ!」(柏原訳)
「何年も前から待ってたんだ。
お前が相談に
やってくるのをな。」(丘沢訳)
「わしはいまおまえに
溺死せよと宣告する!」(柏原訳)
「これから判決をくだしてやる。
おぼれて死ぬのだ!」(丘沢訳)
やはり柏原訳の方により大きな
インパクトがあるように感じます。
もちろん刺激的であれば
いいというわけではありません。
原文の持つ文学的要素や
作者が伝えようとしたニュアンス、
そうしたものを「正確に」
伝えることこそが
翻訳において大切であることは
言うまでもありません。
原文を読む語学的能力を
持たない私には、柏原訳、丘沢訳の
どちらが適切であるかの
判断はできません。
しかし「そこに書かれてあることから
楽しむ」という観点から考えたとき、
私は柏原訳の方に
魅力を感じてしまうのです。
もちろん、丘沢訳も、
これまでの翻訳や
最新研究を踏まえた上での
新訳である以上、
尊重されなければなりません。
まあ、海外作品の翻訳版について、
いくつかの選択肢があることは
読み手である私たちにとっては
幸せなことです。
そうした環境を最大限楽しみましょう。
(2019.11.10)