読み返したとき、じわりと広がる悲しみ
「朽助のいる谷間」(井伏鱒二)
(「山椒魚」)新潮文庫
「私」は、
幼い頃自分の子守役だった
朽助老人の近況を手紙で知る。
彼の小さな家や土地が、
その地に建造されるダムの
水底に沈むことになったが、
彼は未だに家を
立ち退かないのだという。
「私」は朽助のすむ
谷間の村へ駆けつける…。
ダムに水没する村の人間の
悲しみを扱った井伏鱒二の本作品。
昭和4年発表ですが、当時おそらく
日本のいたるところで
見られた風景ではなかったかと
思われます。
朽助はこのとき77歳。
「私」の祖父の代にすでに
他人に譲渡した山の松茸やしめじを、
当時と変わらぬまま
ずっと送り続けるくらいの頑固な老人。
だから村の人々がすでに移住し、
最後の一人になったにもかかわらず、
家に居座り続けたのです。
「私」にうながされ、渋々新宅に
移り住む決心をする朽助老人。
でも、心はやりきれなさで
いっぱいのようすが
そこここに描かれています。
このあとはもう
実をつけることもないだろうと、
庭の杏の実を
ことごとく落としてしまう。
桜の樹に群がった毛虫に、
「蝶々にはなれないだろう」と
独りごちる。
新居に来たものの、
やりきれずに最後の晩を
旧宅で独り過ごす。
いかんともしがたい悲しみに、
一人で耐える朽助の姿が
痛々しい限りです。
しかし、本作品は
(というよりも井伏作品は)、
悲しみ一色で
彩られているわけではありません。
それを包み込むような
優しいユーモアが添えられています。
本作品の場合は、
孫娘タエトの存在でしょう。
タエトは
朽助の娘とアメリカ人との間に
生まれたハーフの娘。
祖父との二人暮らしで、
異性を気にしない
明け透けな部分があり、
それに対する「私」の反応が
微笑ましいのです。
風呂上がりに裸で涼んでいると、
次に風呂に入ったタエトが
叫び声を上げて裸体のまま「私」に
風呂場に毛虫がいたことを報告します。
「私」は裸どうしであるにもかかわらず、
タエトに毛虫の講釈を始めるのです。
「私」の目線は彼女の裸に
惹き寄せられているのですが、
それでいて嫌らしさを感じさせません。
こういう場面をさらりと挿し入れるのが
井伏流なのでしょう。
もっともタエトは
父親が勝手にアメリカに帰国し、
母親はすでに亡くなり、
身よりは祖父朽助一人。
彼女の存在もまた悲しみなのです。
読み返したとき、
じわりと広がる悲しみ。
私の大好きな井伏作品の一つです。
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