「放蕩息子の帰宅」(ジッド)②

末弟は何の象徴なのか?

「放蕩息子の帰宅」(ジッド/若林真訳)
(「百年文庫078 贖」)ポプラ社

さて、第2章以降、ジッドの創作部分は
どうなっているのか。
実は聖書では兄と弟の二人なのですが、
本作品は、さらに下の弟がいるのです。
つまり三人兄弟なのです。

弱者に対して寛容になれない
ファリサイ派に属する人々を
暗喩しているのが兄、
罪を悔い改め救われるべき人を
具現化したのが放蕩息子だとするなら、
末弟は何の象徴なのか?

最後の章「弟との対話」では、放蕩息子は
自分と似た気質の実弟と対峙します。
放蕩息子が兄とそりが合わないように、
弟もまた兄である放蕩息子には
心を開いていません。
そして彼は、放蕩息子の帰還に
心を昂ぶらせていたのです。

弟は兄である放蕩息子に問いかけます。
「家出の途上でどういう
 絶望的なことに出会ったの?
 ああ、どうして帰ってきたの?」

重ねて問いただします。
「なぜ兄さんはその生意気を
 まもれなかったの?
 そうすれば、おめおめ
 帰ってくることもなかったのに」

そしてさらに兄に決意を伝えるのです。
「夜が明けないうちに、
 おれは家出するつもりなんだ。」
「なに?ぼくができなかったことを、
 おまえはやるつもりか?」
「兄さんが道をつけてくれたんだ。」

父に従い、財産を守り通した兄は、
寛大さに欠けた心しか
持ち合わせていませんでした。
父から離れ、財産を使い果たして
帰還した放蕩息子は、
自分の罪を認める潔い精神を
育むことができました。
そして一切の財産も捨て、
家を捨てた末弟は、
放蕩息子よりもさらに一段高い、
より自由な精神をすでに
享受できているのだと私は考えます。

「自由」な心の在り方の模索。
その表象が「弟」であり、
この作品に込められた
もう一つのテーマであると思うのです。
残念ながら、作者ジッドは
その答えを示してはいませんが。
短編ながらもいろいろなことを
考えさせられる本作品。
ノーベル賞作家ジッドの真骨頂です。

※本作品の第2章以降の
 「父の叱責」「兄の叱責」
 「母」「弟との対話」は、
 やや特殊な構成になっています。
 すべて放蕩息子と
 父・兄・母・弟それぞれとの
 禅問答のような会話文から
 成り立っています。
 サローヤンの
 「パパ・ユーア・クレイジー」、
 南直哉「老師と少年」などと
 同じ印象を受けました。

(2019.11.29)

wisconsinpicturesによるPixabayからの画像

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