何ともいえない「もやもや感」
「森の少年」
(マイケル・ドリス/佐々木光陽訳)
新潮文庫
父親が収穫祭の日に
見知らぬ客を招いたことに
反発し、モスは家を飛び出し、
森へと分け入っていった。
部族の男子が必ず通過する
「森の時間」を
経験しようとしたのだ。
道に迷ったモスは、
ヤマアラシや
少女・トラブルとの対話から…。
前回取り上げた「朝の少女」の
姉妹編という触れ込みでしたので
読んでみました。
印象はまったく異なります。
そして読み終えて何ともいえない
「もやもや感」が残りました。
確かに成長物語です。
「森の時間」を過ごしたあとのモスは、
かなり大人に近づいています。
反発したのは
自分が未熟だったということを
理解しています。
その上で、
大人である父親や母親もまた
完璧な存在ではなく、
欠点を抱えながらも
生活しているということに
気付くのです。
そういう点では「朝の少女」と
共通する部分の多い作品です。
では何が私の心に
引っかかっているのか?
「もやもや感」の理由の一つは、
モスの父親が招いた
「客人たち」の存在理由です。
モスの成長物語的な要素以上に、
本作品はこの「客人たち」の
存在が大きいのです。
「客人たち」は明らかにモスたちとは
言語が通じていません。
海の向こうからやってきたことも
記されています。
しかもモスたちに過大な要求を
しているようなふるまいを見せます。
そもそも本作品の原題は「Guests」です。
「Forest boy」や
「Boy in the forest」ではないのです。
作者・ドリスの伝えたい部分は、
モスの成長物語ではなく、この
「来訪者たちのもたらしたもの」なのでは
ないかと思えてならないのです。
「もやもや感」の理由のもう一つは、
物語の設定のいくつかの意味を
よく理解できないことです。
冒頭でモスが壊してしまった
貝殻玉の数珠は何を意味しているのか、
モスに問いかけるヤマアラシ、
そしてモスが持ち帰った
ヤマアラシの針2本は
何を表しているのか、
少女・トラブルが家から追い出された件は
筋書きに対して
何の役割を担っているのか、
一読しただけでは
掴みきれませんでした。
さらに最大の「もやもや感」は、
本作品の訳者の交代です。
1996年に灰谷健次郎訳で
新潮社から出版された本作品は、
同じ装丁で3年後の1999年に
佐々木光陽訳で
文庫化されているのです。
なぜ3年という短期間で
新訳文庫化となったのか?
灰谷訳に何か問題でもあったのか?
「朝の少女」も灰谷健次郎訳である以上、
なお一層「もやもや感」が深まります。
いや、それもまた読書をする上での
大切なことです。
初読でわからなかったことが、
数年後の再読で理解できた経験は
何度もあります。
だからこそ楽しいのです。
本作品との次の出会いを
楽しみにしたいと思います。
(2020.1.1)