「瞳の中の女」(横溝正史)

ひとつくらいこんな話も…

「瞳の中の女」(横溝正史)
(「金田一耕助の冒険」)角川文庫

金田一と等々力が
尾行している青年。
彼は一年前のある夜、
何者かに襲われて
記憶をなくしていた。
彼は婚約者の顔すら
識別できなかったが、
ある女性の顔だけが
鮮明に浮かび上がるという。
記憶を取り戻した彼は、
その女性を探し…。

なんらかの事件に巻き込まれて
記憶を喪失した青年・杉田弘は、
その後、入院先の病院の火災によって
記憶を取り戻すのです。
彼は自身が巻き込まれた事件の現場で
何を思い出すか、
金田一と警部は
密かに後を付けていたのです。
横溝正史の本短篇は、その表題が
「瞳の中の女」となっていますが、
正確には「記憶の中の女」なのです。
彼はいったい、どのような形で
その「記憶の中の女」と
出会うことができるのか?

【事件簿File-061「瞳の中の女」】
〔依頼人〕
斎田愛子…杉田弘の婚約者。
〔捜査関係者〕
山下敬三巡査
…芝公園付近を巡回中、
 昏倒した杉田弘を発見。
等々力警部…警視庁捜査一課警部。
〔事件関係者〕
杉田弘
…T新聞社記者。
 瞳の中の女以外の記憶を全て喪失。
杉田直行…弘の父。大学教授。
杉田秋子…弘の母。
杉田久…弘の兄。
杉田尚子…弘の妹。
沢田潔人
…杉田青年が災難にあった夜に
 訪問していた声楽家。
K博士
…K精神病院医師。杉田青年の
 記憶を呼び覚ます実験を行う。
灰田太三
…アトリエの主人。麻薬患者。
陳隆芳
…中国人。香港へ帰国、行方不明。
川崎不二子
…陳隆芳の妾。
 灰田太三と通じていた。
「ふたりづれの男」
…杉田青年の目撃した不審な人物。
 中国人か朝鮮人らしい。
〔事件の経緯〕

⑴昭和32年3月24日
・山下巡査、後頭部から血を流して
 倒れている杉田弘を発見、救助。
⑵昭和33年5月8日
・杉田の入院先のK病院で火災発生、
 その際の昏倒により記憶を回復。
⑶昭和33年5月25日
・杉田を心配した斎田愛子、
 金田一に相談。
⑷昭和33年5月28日
・行動を始めた杉田を、
 金田一と等々力が尾行。

本作品の味わいどころ①
解決されない事件

杉田青年は見事にその「記憶の中の女」と
再会することができたのですが…、
予想どおり「死体となった女」を
発見するのです。
現場のアトリエで何が起きたのか?
アトリエに残されていた女の胸像は
何を意味するのか?
女性を殺害した犯人は、
次には記憶の回復した杉田青年を
殺害しようとするのでは?
そこからどのように
事件が発展していくのか、
読み手の想像は
いろいろ膨らむはずなのですが、
短篇である本作品の筋書きは、
膨らむことなく幕を閉じるのです。

犯人はどうやら海外逃亡したらしく、
捜査はまったく進展しません。
殺害された女性の胸像が
現場のアトリエに放置されていた
謎についても、
まさに「放置」されたままです。
それは
被害者が生きているうちに作ったのか、
それとも死んでから制作したのか、
さらにはなぜそれが
アトリエに残されていたのか、
金田一も首を傾げるばかりなのです。
他作品には見られない、
この未解決状態の事件記録こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ②
活躍しない金田一

したがって本作品において、
実は金田一は、ほとんど
推理らしいことをしていません。
事件の犯人たちの行動を読み解いたのは
杉田青年なのです。
被害者の夫は海外へ出国し、
そのまま行方不明となり、
被害者と関係を持っていた男は
すでに死亡し、
それ以上の捜査ができなかったことが
原因なのですが、
金田一は
「その男が被害を訴え出られなかった
何かがあったのかも知れないこと」を
推察したのみです。

推理をしなかっただけではありません。
冒頭部に描かれた杉田青年の尾行すら、
金田一はいつもの和服に袴姿で
乗り出した関係上、等々力警部から
「金田一先生はおよしなさい」と
ストップをかけられる始末です。

INDEX 金田一耕助の事件簿

おそらく金田一には、
この事件が現在進行形のものではなく、
すでに過去のものとなっていることが、
ある程度見通せていたのでしょう。
マイペースでゆったり構えているように
感じられます。
すべてにおいて完璧である必要など
ないのです。
こうしたあたりが
明智小五郎や神津恭介にはない、
金田一耕助の
持ち味の一つなのでしょう。
他作品には見られない、
この金田一の活躍のない事件記録こそ、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ③
浮かばれない青年

脳裏に浮かぶ女性の正体は
いったい誰なのか?
ここが本作品の
最もミステリアスな部分でした。
彼が記憶を失う直前、
この女性とロマンチックな出会いを
果たしていたのでは?
そしてその記憶を取り戻し、
自分が事件に巻き込まれた
真相を知るのでは?
そういう期待は見事に裏切られます。
杉田青年はすでに殺害されたその女性を
一瞬だけ目撃したあと、
背後から襲撃されたのでした。
そして彼はたまたま事件に
巻き込まれただけであることが
判明します。
失われた一年という時間を考えると、
なんとも浮かばれない
杉田青年なのです。

読み手の立場では
物足りなさを感じてしまいますが、
杉田青年は婚約者のいる身、
「記憶の中の女」と
何かロマンスがあったのなら、
後味の悪い結末になりかねません。
彼は女性の死体発見を
スクープできたのです。
事件の全体像を「推察」した
金田一同様に、
読み手も杉田青年の
このあとを「想像」すると、
新聞記者として名声を得るとともに
婚約者と幸せな結婚を遂げる姿が
イメージできるはずです。
この、浮かばれない青年の
幸せに向かいつつある将来像を
感じとることこそ、本作品の第三の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。

以上、味わいどころを
三つの「ない」で紹介しました。
仮に本作品がシリーズ探偵ではなく、
単発の短篇作品なら、
ミステリとして成立しないはずです。
「ひとつくらいこんな話も
いいではありませんか」と
金田一が語るように、
あまたある金田一事件簿の中に
存在するからこそ、
本作品の味わいが生きてくるのです。
ひとつくらいこんな中途半端な
事件記録があってもいいのです。
本書のタイトルは
「金田一耕助の冒険」であって
「推理」ではありませんから。

(2020.1.8)

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(2026.2.18)

〔追記〕
2022年6月、
ついに本書が復刊となりました。
昭和51年に文庫初版が刊行された後、
昭和54年には二分冊、
それも杉本一文装丁ではなくなり、
大変残念な気持ちでいました。
復刊というよりは、今回40数年ぶりの
杉本一文装丁画の復活が
喜ばしいことです。
新版はデザインが
マイナー・チェンジしています。

(2022.6.25)

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