「おさん」(太宰治)

太宰自身による痛烈な自己批判

「おさん」(太宰治)
(「ヴィヨンの妻」)新潮文庫

疎開先の青森が被災したため、
子どもとともに
東京に戻ってきた「私」。
だが東京の家も半壊したまま。
そして勤務先が罹災し、
失業者となった夫は、
多額の借金を背負う。
二三週間静養に
出かけると言って、
夫は家を後にする…。

「たましいの、抜けたひとのように、
 足音も無く玄関から
 出て行きます。
(中略)
 夏の夕闇に浮いてふわふわ、
 ほとんど幽霊のような、
 とてもこの世に
 生きているものではないような、
 情無い悲しいうしろ姿を見せて
 歩いて行きます。」

本作品の冒頭部分7行(新潮文庫版)。
「私」の夫の描写です。
冒頭からいきなり
死の影がのぞいていますが、
やはり最後に自ら命を絶ちます。

いわゆる「不倫もの」です。
妻子が疎開している間に
勤務先の女性とできてしまうのですが、
夫はそれを苦にして
心中してしまうのです。

でも、
妻である「私」は割り切っています。
「男のひとは、
 妻をいつも思っている事が
 道徳的だと
 勘違いしているのでは
 ないでしょうか。」
「もし夫が平気で快活にしていたら、
 妻だって、
 地獄の思いをせずにすむのです。
 ひとを愛するなら、
 妻を全く忘れて、
 あっさり無心に
 愛してやってください。」

敗戦後の混乱にもめげず、
現実を直視し、折り合いをつけ、
たくましく行動している
女性の「私」に対して、
現実逃避し、
ぬかるみに沈み込んでいくかのような
夫の姿が対照的です。
やはり女性は強いのでしょうか。

「私」はさらに最後を
このように締めくくります。
「夫はどうしてその女のひとを、
 もっと公然とたのしく愛して、
 妻の私までたのしくなるように
 愛してやる事が
 出来なかったのでしょう。
 地獄の思いの恋などは、
 はためいわくです。」

女性である「私」のこの考え方は、
男の立場からすると、
ある意味ありがたいのですが、
本作品を書いたのは
そもそも男の太宰なのです。
太宰得意の「女性一人称告白体」です。
太宰がこの形式を用いるときには、
自分の内面の正直な部分を
吐露していることが多いと
私は感じています。
本作品発表は昭和22年10月。
太宰が玉川上水で愛人山崎富栄と
入水自殺したのが翌23年6月。
だとすると本作品は、
女性「私」の口を借りた、
太宰自身による
痛烈な自己批判とも考えられます。
作品冒頭の7行に見られる死の影は、
「私」の夫の影であるばかりでなく、
作者太宰自身に
忍び寄った影でもあったのでしょう。

※調べてみると、
 タイトル「おさん」は、
 「心中天の網島」の
 妻「さん」から来ているそうです。

(2020.1.10)

GimpWorkshopによるPixabayからの画像

【青空文庫】
「おさん」(太宰治)

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