「シラノ・ド・ベルジュラック」(遠藤周作)

ロスタン版シラノ像vs遠藤版シラノ

「シラノ・ド・ベルジュラック」
(遠藤周作)(「百年文庫026 窓」)
 ポプラ社

フランスに留学した「私」は、
老学者ウイ先生に興味を覚え、
仏語と文学の
家庭教師をお願いする。
しかし「私」は
ウイ先生が口癖のように言う
「文学とはレトリックだ」
という教えに反発を覚える。
ある日、先生の留守中、
書棚から…。

以前取り上げた
「海と毒薬」と同時期に書かれた
遠藤周作の短篇作品です。
ロスタンの戯曲で知られる、
大きな鼻に悩みながら、
一人の女性を胸中で恋い慕い続け
生涯を終えていく
「シラノ・ド・ベルジュラック」。
実在のシラノ自身の
手記が見つかったという設定は
面白く読むことができました。

シラノはロクサーヌを愛していたが、
自分の醜い容貌ゆえに
告白することができなかった。
シラノはクリスチャンの
ロクサーヌに対する恋心を知るや否や、
彼等の恋の成就のために
恋文の代筆まで行う。
それが戯曲におけるシラノの姿でした。

作者・遠藤は、
創作したシラノの手記の中で、
愛する女性を譲った理由について、
「ロクサーヌが遠ざかれば遠ざかるほど、
情熱は昂ぶる」としています。
そしてかなり屈折した人物として
シラノを描写しています。
「人妻となり、
 俺の手の届かぬこの女を
 空想の中で飾りたて、
 不安や嫉妬によって
 更に執着しつづける」
「俺のロクサーヌに対する感情は
 愛なのだろうか。
 おそらく愛ではあるまい。」

謙譲の精神と正義と騎士道を重んじた
ロスタン版シラノ像を、
180度転換させた、
狡猾であり煩悩に悩まされる
遠藤版シラノ。
しかし作者のねらいは
単なる面白さではありません。
「私」とウイ先生の、というよりも
日本とフランスの文学観の違いを
浮き彫りにしたかったのではないかと
思うのです。

「私」とウイは議論します。
「あの手記が本当なら、
 こんな書物よりは
 生きていると思います。」
「あれは文学ではないものだ」
「ですが、人間の真実でしょう」
「真実ではない。事実だ。
 事実は文学とは何の関係もない」
「文学は人間の真実を
 追求することでしょう」

現実の人間の生々しい感情を描く
日本の文学観に対して、
「文学とは結局、レトリック」という
ウイの言葉で語られる
フランス文学観。
決して交わることのない
平行線のようにも思えます。

だとしても本作品は、
遠藤があまりにも自分の文学観を
主張しすぎているように
思えてなりません。
もう少し遠藤作品を読み込まなければ
解くことのできない鍵が、
本作品にはまだまだありそうです。

(2020.1.16)

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