「仙人(1915)」(芥川龍之介)

絶対的な力を小市民に見せつける仙人

「仙人(1915)」(芥川龍之介)
(「芥川龍之介全集1」)ちくま文庫

貧しい見世物師の李は
一人の道士と出会う。
痩せて薄汚れた風貌を見て、
李は道士の境遇に同情し、
慰めようとる。
すると道士は、
「金には不自由していない、
なんなら」といい、
廟の床に散らばっている
紙銭を掬ってはまき散らし…。

前回取り上げた芥川龍之介の「仙人」。
実は芥川には、
同表題のもう一つの作品があります。
昨日の「仙人」は大正11年作。
本作は同4年発表、
芥川初期の秀作です。

この道士が仙人だったわけです。
「お望みなら、あなたのお暮し位は
お助け申しても、よろしい」と言い、
そして紙銭(埋葬時に棺に入れる
銭をかたどった紙)を次から次に、
本物の金銭銀銭に変えていきます。

貧乏人をあっという間に
大金持ちにしてしまう設定は、
本作の5年後に発表した
「杜子春」と同一です。
かの鉄冠子は、「どこか物わかりが
好さそうだったから」杜子春を
大金持ちにしたのですが、
本作の仙人は全く気まぐれです。

なぜ仙人が乞食のような
恰好をしていたかというと、
「死苦ともに脱し得て甚だ、
 無聊なり。仙人は若かず、
 凡人の死苦あるに。」

要するに、退屈だったのでしょう。
ひもじい思いを
体験して歩くくらいですから、
よほど暇だったのでしょう。
でも、李の立場に立って考えると
腹が立ちます。
同情を寄せた人間に対し、
これ見よがしに仙人の力を
見せびらかしているのですから。
「君たちがいくら頑張ったって、
所詮僕には及ばないよ」と
あざ笑われているような
感覚を覚えます。

万能の力を持ち、不老不死。
仙人とは究極の存在なのです。
その仙人が、弱きを助け、
悪を挫いてしまうと、
子ども向けの童話か、
お年寄り向けの時代劇に
なってしまいます。
また、巨万の富を得て
ふんぞり返っている大富豪を
ぎゃふんと言わせたなら、
大衆娯楽に成り下がってしまいます。
そうです。
仙人が絶対的な力を、
小市民相手に見せつけたからこそ、
本作は文学作品たり得たのです。

本作の発表後、
芥川は「羅生門」「鼻」と、
超一級の短編小説を連発します。
芥川が、その文学的才能を
最大限に開花する直前の一品が
本作なのです。
芥川好きならずとも楽しめます。

※今日取り上げた「仙人」が、
 ちくま文庫の全集以外に
 収録されているかどうか
 調べてみたのですが
 わかりませんでした。
 短編集に収録されてある
 作品一覧が、
 amazonやhonto等の
 仮想書店はおろか、
 各出版社のHPでも
 確認できないのです。
 本を出版し販売する会社が
 そろいもそろってこの状態です。
 書籍の内容についての
 丁寧な情報発信を
 出版業界に対して望みます。

(2020.2.6)

qi sunによるPixabayからの画像

【青空文庫】
「仙人」(芥川龍之介)

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