病から再び生を得た、いわば第二の誕生
「恢復期」(神西清)
(「百年文庫026 窓」)ポプラ社
大いなる熱が私を解放した。
私は再び鎔和された人間だ。
いま霧のなかから
静かに私の前にたち現れるのは、
私の曾て知らなかった
新たな廻転をもつ世界である。
その世界にはまだ何一つとして
名のついている物はない。…。
冒頭の三文です。
難しい言い回しであり、
何のことか分からないまま
読み進めました。
なんとこれは18歳の少女が書いた
日記という体裁をとった
小説なのです。
しかも大病を患い、
意識不明の数日間を過ごし、
そこから恢復したものの、
過去の記憶の多くを
失った状態の少女なのです。
そんな痛々しい少女が
こんな散文調の
詩的で難しい文章を
書けるのかという疑問が
生じる間を持てないほど、
美しい日本語に
引き込まれてしまいます。
筋書きは大きく
二つの部分に分かれます。
前半は熱海のおそらくは療養所、
後半は軽井沢の別荘です。
それぞれで彼女の恢復の様子が、
というよりも生命を取り戻し、
青春を取り戻しつつある様子が、
瑞々しい感性と
流麗な日本語によって
綴られていきます。
前半の熱海では、
意識を取り戻して
間もない頃の様子です。
まだ病床にあり、
起き上がることができないため、
彼女は聴覚を駆使して
世界を認識していきます。
「現在の私にとって、
海は朝夕にやや高まる
潮音だけに過ぎない。
聴く海。
正しさを失わない為には、
私は耳によって
海を理解するより他に途はない。」
後半の軽井沢では、
逆に聴覚を意図的に押さえ、
視覚を頼りに
世界を広げている様子が
うかがえます。
「山の雲と海の雲とは
同じではない。
海の雲には線がなくて
色彩だけである。
山の雲は先ず何よりも先に
線で描かれなければならぬ。」
そして最後に認識するのは「心」です。
身のまわりの世話をしてくれた
百合さんと父親の間の何気ない仕草に、
彼女は温かいものを感じるとともに、
自分自身の心と体の
大きな変化に気付くのです。
「父の手がごく自然に
百合さんの肩へと伸びてゆき、
百合さんの項が
心もち前の方へ傾いた。
私は(なぜか)思わず
室内へ駈け戻った。
気がついたとき、
私は自分の寝室へ昇る
階段の下に佇んで、
しっかりと両腕で
乳房を抱きしめていた。
私は明るく光るものの姿を見た。」
多感な少女の、
病から再び生を得た、
いわば第二の誕生を、
生命感溢れる筆致で
見事なまでに美しく描出しています。
忘れ去られた作家・神西清の
知られざる逸品。
本書「百年文庫」もしくは青空文庫で
ぜひご一読ください。
※ロシア文学の翻訳者として
名が残っているだけで、
小説は忘れ去られている神西清。
小説の文庫本はすべて絶版中。
幸いにも青空文庫に
収録されていますので、
少しずつ読んでいくつもりです。
(2020.2.9)
【青空文庫】
「恢復期」(神西清)