安部の筆が描く寓話の実態は現実社会
「友達」(安部公房)
(「友達・棒になった男」)新潮文庫

一人暮らしの「男」の部屋に、
面識のない九人の人間が
突然侵入してくる。
彼等は当たり前のように
部屋を占拠し、
「男」の家族として
振る舞いはじめる。
侵入者たちは
笑顔で隣人愛を唱え、
「男」の生活と存在を
次々に侵食し始める…。
何とも恐ろしい戯曲です。
読んでいて次第に背筋が寒くなり、
ついには凍りつくような感覚を
覚えました。
不幸が、静かに、
雪だるま式に増えていきます。
九人の侵入者の存在だけでも
不幸であるのに、
財産(退職金の前借り)も奪われ、
やがて監禁されたあげく、
生命まで奪われていくのです。
侵入した一家が
あまりにも堂々としているため、
警察もそれを事件と
受け止めてくれません。
婚約者との仲も引き裂かれていきます。
男は完全に孤立無援となるのです。
そうした恐怖が、
あたかも読んでいる自分自身に
起こっているかのような錯覚を
感じてしまいます。
これだけ悪質な集団に、「友達」という
名前を与えているところが、
安部公房の
強烈なブラック・ユーモアです。
一家はどこまでも男に
自分たちと一体であることを
強要していきます。
その実、男のものは
すべて一家に吸収され、
一家から男へは何の提供もありません。
なんという理不尽、そして
なんという不条理な世界でしょう。
次女の最後のセリフに
鍵が隠されています。
「さからいさえしなければ、
私たちなんか、ただの世間にしか
すぎなかったのに…。」
九人の侵入者たちを、
安部は「世間」と設定しているのです。
つまり「世間」というのは
得てしてこういうものですよ、
多数決の論理というのは
こんなものですよ、と
言っているのです。
そうです。この戯曲は、
個が多数決の原理によって
集団に飲み込まれ、抑圧され、
押しつぶされていく過程を
描いたものなのです。
そして「砂の女」や「棒」でもそうですが、
安部の筆が描く寓話の実態は
現実社会です。
5年前の2015年9月、私たちの国で
安全保障関連法案が成立しました。
私は法案の是非以上に、
憲法解釈が時の権力者によって
恣意的に変更された点が
大きな問題と感じています。
本来、権力者の権限を制限し
私たちの権利を守るはずの
「憲法」がないがしろにされ、
私たちの権利を
制限することにつながる「法律」が、
権力者によって
簡単につくられるようになったことは
恐ろしいことです。
私たちは知らず知らずのうちに、
自室へ「悪質なもの」の侵入を
許してしまったのではないかと
感じてしまいます。
現実社会そのものが、
この戯曲のように進行しないことを、
ただただ祈るのみです。
※本作品を読んで受けた印象は、
漫画の「20世紀少年」と
同質なものがあります。
「友達」というキーワードからして
そうなのですが。
浦沢直樹氏は本作品の影響を
受けていたのかどうか、
気になるところです。
(2020.6.22)
