「女ことばと日本語」(中村桃子)

なぜ日本語には女ことばが存在するのか?

「女ことばと日本語」(中村桃子)
 岩波新書

最初にことわっておきます。
本書は言語学として
書かれたものではありません。
社会論、ジェンダー論です。
なぜ日本語には
女ことばが存在するのか?
本書はその問いに対して、
豊富な文献をもとに
一つの答えを示したものなのです。

第1部 「女らしい話し方」
規範としての女ことば

筆者は福沢諭吉や
江戸時代の女訓書などを紹介しながら、
その根底にある
男尊女卑について触れています。
「女は話すな」と女性に対して
くり返し説き続けることで、
「女性の話し方は、
管理、監視、支配されるべき
対象となった」のだと論じています。

第2部 「国語」の登場
知識としての女ことば

明治時代に入り、いわゆる
「言文一致」論が生まれました。
これは単に書き言葉と話し言葉を
一致させるだけにとどまらず、
「ひとつの国語」を制定することに
意味がありました。
その際に「中流社会の男子の言語」を
標準語と定義したのだそうです。
明治政府は「ひとつの国語」で
近代化を促進し、
他方では女性に
「言葉づかいを慎む」ことを
求めたのです。
筆者はその背景として、
明治の国民化が
ジェンダー化されていたことを
指摘しています。

第3部 女ことば礼賛
価値としての女ことば1

さらに戦中期になると、
「女ことばは日本語の伝統である」
とする論が出現します。
これは戦争の激化に伴い、
女性も戦争に貢献すること、
つまり、「女の国民化」
(銃後を守り、子どもを産む)
が求められた結果と
筆者は説明しています。

第4部 「自然な女らしさ」と男女平等
価値としての女ことば2

戦争の終結とともに、
民主主義と男女平等の思想が拡がり、
女性言葉が
否定される素地ができました。
しかし、女ことば擁護論が現れます。
それは、あくまでも家父長制を維持し、
女性の権利を認めない勢力の
論理の台頭であると
筆者は解説しています。

考えてみると、日本の植民地政策は、
言語の支配からはじまっています。
自分たちの使う言語を
支配されることこそ、
その国、その民族、その個人が
支配されることなのです。

できれば女の子には
女の子らしい言葉を使って欲しいと
私も思うのですが、これも所詮、
男の側の論理に
慣らされた結果なのかも知れません。

(2020.7.24)

Felicia RuizによるPixabayからの画像

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