「汚れつちまつた悲しみに」(中原中也)

二十数年ぶりに会った友達がなぜかよそよそしかった

「汚れつちまつた悲しみに」
(中原中也)集英社文庫

最近、久しぶりに読み返しました。
でも、何かしっくりきません。
私は(たしか)中学2年生のころ、
この「汚れつちまつた悲しみに」の
詩に出会い、
さらには大学生のころ、
文庫本の「中原中也詩集」を
愛読書としていました。
そのときには確かに中也の詩に
親近感を抱いていました。
それが今、十分な共感が
できなくなってきているのです。

学生時代に読んでいた文庫本を
引っ越しのとき処分し、
数年前に思い出して再購入しました。
二十数年、間があいてしまったのが
原因なのでしょうか。
二十数年ぶりに会った友達が
なぜかよそよそしかった…
まるでそんな感じです。

考えられるのは
次のどれかなのでしょう。
①若さゆえに理解できていたのが、
 年をとってしまって
 わからなくなってきた
②若い頃はわからないのに
 理解したつもりでいたのが、
 年をとってわからないということが
 はっきり自覚できるように
 なってきた
③若い頃もわからなかったのに、
 わかっていたように
 記憶が混濁してきている
まあ、いずれにしても
良い傾向ではありません。

難しい詩人はたくさんいます。
難しくても谷川俊太郎は
根気よく咀嚼すればわかってきます。
でも、中原中也の場合、
頑張って読み解こうとしても、
しっかりと像を結んでいかず、
漠然としたままのような
もどかしさを感じるのです。

「汚れつちまった悲しみに
 今日も小雪の降りかかる」

よりだったら、
「透明な過去の駅で
 遺失物係の前に立つたら
 僕は余計に悲しくなってしまつた」

の方が、私にはわかります。

気がつけば、私も中也が生きた年齢を
遙かに超えてしまっています。
彼が長生きをしていたら、
どんな詩を書いていただろう。
五十代の彼が書いた詩ならば、
今頃しっかり
堪能できているのでしょうか。
でも、それは、
芥川が長生きしてたら、
太宰が長生きしてたら、と同じように、
意味のないことです。

彼の言いたいことを、
自分が若かった頃と同じように
理解していきたい。
多分、何度も読み返し、
彼の生きた痕跡を地道にたどりながら、
自分の精神を中也が生きた年齢と
重ね合わせていくしか、
彼にもう一度近づける方法は
ないのかもしれません。

もしかしたら、若い世代の方が、
今の五十代の私よりも
彼の詩に共感できるのかも知れません。
私が中也の詩と出会った年齢と同じ
中学校2年生に薦めたいと思います。

(2020.7.28)

Söhnke Sören WeinerによるPixabayからの画像

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