全ての作品から血まみれの久坂の魂が感じられる
「久坂葉子作品集 女」(久坂葉子)
六興出版
一九四九年の夏前に、
久坂葉子は、
この世に存在しはじめた。
この名を、
原稿用紙の片隅に記した時は、
確かに、この世に
存在し得たものではなかった。
誰かが認めなければ、
その物体の存在価値など、
零であるのだ。…。
「久坂葉子の誕生と死亡」
戦争で夫に先立たれた「私」は、
幼い息子、そして
元下男であった作衛じいやと
絵ざらさで生計を立てている。
その仕事が軌道に乗ったため、
手伝いとしておはるという娘を雇う。
いつしか作衛とおはるの関係が
気になり出す「私」…。
「入梅」
久坂葉子の作品集は、
現在流通しているものとしては
講談社文芸文庫の
「幾度目かの最期」のみです。
しかし小説は他にもあります。
中古本で入手した本書。
「幾度目かの最後」に
収録されていない
作品3篇を含んでいて、
貴重な作品集です。
廃人同様の父、
何でも神頼みの母、
肺結核を患う兄、
成長の中で徐々に
その変化を見せる弟。
そして雪子。
それぞれが独立した世界観で
生きていた家族。
父の自殺により、雪子は
再び自身と家族との
繋がりについて考えはじめる…。
「落ちてゆく世界」
一人の娘っ子が、灰色の中に、
ぽっこり浮かんだ。
それは私なのである。
私のバックは灰色なのだ。
バラ色の人生をゆめみながら、
そうしても灰色にしかならないで、
二十歳まで来てしまった。
もうすでに幕はあがっている。…。
「灰色の記憶」
講談社文芸文庫版「幾度目かの最期」に
収められている作品は
私小説的なものが中心でした。
そうした点を考えるに、
本書は「入梅」「華々しき瞬間」といった
久坂の全くの創作作品が
味わい深いと思いました。
その2作品を読んだだけでも、
久坂の男女関係に対する考え方、
というよりも
人間関係の結び方に
何か歪なものが感じられて
仕方がありません。
先天的な発達障害的なものなのか、
あるいは
特殊な家庭環境と敗戦による
心の痛手のもたらしたものなのか。
「阿難」という別人格を心の中に
植え付けている南原杉子は、
行きつけの喫茶店の
経営者・蓬莱和子に惹かれる。
そして和子の知人であり
妻子のある仁科六郎に
阿難として、
さらには和子の夫・建介には
杉子として、
関係を持っていく…。
「華々しき瞬間」
熊野の小母さんへ。
あなたにたよりしている気持ちで、
私は、おそらく今度こそ
本当の最後の仕事を、
真剣になって綴ろうというのです。
私はこれを発表するべくして、
死ぬでしょう。
私の最期の仕事なんですから。…。
「幾度目かの最期」
全ての作品から
血まみれの痛々しい姿の
久坂の魂が感じられて
切ない思いでいっぱいになります。
わずか二十歳前後の、
若く瑞々しい感性と
傷ついて痛ましい心。
私より35年も前に生まれ、
私の4割くらいしか生きなかった
久坂葉子。彼女の魂は
今どこを彷徨っているのやら。
(2020.8.13)