その恐怖の正体は一体何なのか?
「旅順入城式」(内田百閒)
(「冥途・旅順入城式」)岩波文庫
大学の講堂に
活動写真を見に行った「私」。
「旅順開城」が始まると、
「私」はなぜか
哀しい気持ちになる。
遠い山の背から、
不意に恐ろしい
煙の塊が立ちのぼって、
煙の中を幾十とも
幾百ともしれない輝くものが、
筋になって飛んだ…。
「旅順入城式」
昨日は
ハーンの「怪談」を取り上げました。
内田百閒もまた「怖いはなし」を
数多く著した作家です。
しかし、ハーンとは全く異なり、
百軒の作品は、現実と非現実の
境界が曖昧であるとともに、
何を表現しているのか
理解不能のものもあり、
いろいろな意味で怖いものばかりです。
本作品集「旅順入城式」も、
そうした作品
29篇から構成されています。
「鯉」
「私は恐ろしいものに追掛けられて、
逃げ廻っていたらしい。」
何から逃げ回っていたか?
「鯉」です。
「山の彼方此方が、むくむくと
動くように思われ出した。
そうして、
いきなり一匹の大きな鯉になった。」
「鯉」が一体何を暗示しているのか?
やはりわかりません。
「五位鷺」
「醒めた拍子に一時に出たらしい冷汗が、
頸から背中に流れている。」
寝ている間に
どんな怖い夢を見たのか?
それがわからないからなお怖いのです。
そして離れの屋根の上には
大きな五位鷺が。
「私の心に覚えのない泪が、
いきなり頰を伝って流れた。」
やはりわかりません。
「女出入」
警察に連行された「私」。
周囲には大勢の巡査の姿。
やがて、
「じめじめした土間の四隅から、
真っ黒などろどろしたものが
盛り上がるようになって
流れ出した。そうして
そのどろどろしたものの中に、
彼方此方に、幾つも幾つも
巡査の目が溶け込んで、
上っ面に覗いているのもあり、
底の方から光っているのもあった。」
外に出た「私」を、
どろどろは追い掛けてくるのです。
やはりわかりません。
序文で作者が述べているように、
全29編のうち、
はじめの7編には筋書きがあり、
短編小説の体をなしているのですが、
残り22編はすべてこのような形です。
「冥途」もそうでしたが、
本作はさらに一層謎めいています。
「鯉」や「鷺」と表現されているものの、
それは何かの暗示であり、「どろどろ」と
変わるところはありません。
その恐怖の正体は一体何なのか?
本作完成は1934年。
前作「冥途」(1922年)から
12年が経過しています。
その間に、大震災により首都は崩壊し、
時代は大正から昭和に移りました。
そしてその先には戦争という
さらに大きな
時代のうねりを控えていたのです。
もしかしたら百閒が感じていた、
これら正体不明の「恐ろしいもの」とは、
ひたひたと忍び寄る戦争の影であり、
次第に殺伐となってゆく
時代の空気であったのかもしれません。
あくまでも推察にすぎませんが。
※本書「冥途・旅順入城式」は、
全編を読み通すよりも、
折にふれて一作一作
気が向いたときに読むと
いいような気がします。
中高生にはやや難しいです。
※参考までに収録作品一覧を。
「旅順入城式」序
昇天
山高帽子
遊就館
影
映像
猫
狭莚
旅順入城式
大宴会
大尉殺し
遣唐使
菊
鯉
五位鷺
銀杏
女出入
矮人
流渦
坂
水鳥
雪
波頭
残照
先行者
春心
秋陽炎
蘭陵王入陣曲
木蓮
藤の花
(2020.8.26)