「待つ」(太宰治)

娘は一体、誰を待っているのだろう?

「待つ」(太宰治)
(「新ハムレット」)新潮文庫

省線の小さい駅に「私」は毎日、
人を迎えにいく。
誰ともわからぬ人を迎えに。
駅に立ち寄り、
駅の冷いベンチに腰をおろし、
ぼんやり坐っている。
「私」の待っているものは、
人間でないかも知れない。
「私」は、
人間がきらいだった…。

「省線のその小さい駅に、
 私は毎日、
 人をお迎えにまいります。
 誰とも、わからぬ人を迎えに。」
から
始まる、わずか4頁あまりの掌編。
娘は一体、誰を待っているのだろう?

これまでたくさんの方々が分析し、
論じていることですので、
私ごときが
付け加えることなどありません。
でも、読むたびに、考えてしまいます。
娘は一体、誰を待っているのだろう?

それが「人」ではないことは明らかです。
「人間でないかも知れない。
 私は、人間をきらいです。」
「旦那さま。ちがう。
 恋人。ちがいます。
 お友達。いやだ。
 お金。まさか。
 亡霊。おお、いやだ。」
「もっとなごやかな、
 ぱっと明るい、
 素晴らしいもの。
 なんだか、わからない。」

よく言われているのが「希望」「救い」、
時局を考えると「平和」ということに
なるのでしょう。
しかし、この部分を考えると、
そうしたものでもないと思うのです。
「ひょいと現われたら!
 という期待と、
 ああ、現われたら困る、
 どうしようという恐怖」
「現われた時には仕方が無い、
 その人に私のいのちを
 差し上げよう、
 私の運がその時
 きまってしまうのだというような、
 あきらめに似た覚悟」

本当に待っているのかどうかさえ
朧気な、そんな不安定な気持ちなのです。

もちろん戦争が
影を落としていることは確かです。
「いよいよ大戦争がはじまって、
 周囲がひどく
 緊張してまいりましてからは」

以降、大戦争という言葉は
合計3度現れます。

さて、肩の力を抜いて、
心をまっさらにして
本作品を読んだとき、娘は一体、
誰を待っているのだろう?という
問いかけ自体が意味をなさない
もののような気がしてきます。
太宰はそこに何かを
暗示しようとしていたのではなく、
「女生徒」のように、若い女性の、
常に不安と期待の入り交じった心象を
描きたかっただけではなかったのか。
そんな気がするのです。

1939年発表の「女生徒」は14歳。
1941年発表の「千代女」は18歳。
そして1942年発表の
本作品の娘は20歳。
何となく、
一連の女性一人称告白体の3作品が、
同じ女の子の成長した姿のような
印象を受けてしまいます。

まあ、文学作品は、あまり難しく
読む必要はないのかも知れません。
中学生高校生ならどう読むか、
現代の20歳の女性ならどう読むか、
興味のあるところです。

(2020.9.8)

ikuyustak amunasaによるPixabayからの画像

【青空文庫】
「待つ」(太宰治)

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