死んだ同僚と、生き残った自分との差異
「食慾について」(大岡昇平)
(「日本文学100年の名作第4巻」)
新潮文庫
フィリピン戦線でのある夜、
銃声を聞きつけた「私」たちは
敵襲と考え、
銃を手にして床に伏せた。
ところが隣に寝ていた池田は、
壁に張り付いたような姿勢で
口に何かを含ませていた。
翌朝、その行動について
「私」が問い質すと…。
「俘虜記」「野火」といった
戦争文学が有名の大岡昇平。
二作品は戦争時における
人間の本質を鋭く捉えた作品です。
本作品は、小説ではなくエッセイです。
それも戦争時における
「食慾」についてです。
敵襲に備えて床に伏せるべきところを
壁に張り付いていた池田の行動は、
実はそこに掛けていた
奉公袋から角砂糖を取り出し、
一心に頬張っていたのです。
大岡は彼について
このように記しています。
「わが友池田の食慾は
私の一般的解釈を超えた
獰猛性を帯びていた。」
死ぬかも知れないから、
せっかく集めた角砂糖を
食べてしまおう。
鷹揚であると言うべきか、
みみっちいと言うべきか。
食うことが生きることだとすれば、
こうした行為こそ
人間らしいと言うべきか。
でもやはり常軌を逸しています。
大岡はそうした同僚と
自らを比較して、
次のように書いています。
「異常な食慾によって、
彼が生死につき
我々と違った
平静な観念を持っているとすれば、
これは羨むべきであった。
彼のように
不断の関心を持たない私は、
いずれこの地に上って来る
強力な敵と、
自分の死の予感を
瞬時も去ることが出来なかった。」
では、この池田は
恵まれていたのかというと、
「しかし彼は
死においては不運であった」。
死を怖れる心を
消し去ることが出来ても、
死んでしまったら意味がありません。
このあたりは
「暗号手」に通じるところがあります。
「暗号手」の「私」は
上官に取り入って出世する
中山冷静に分析しながらも、
それを真似しようとは
しませんでした。
そして中山は早死にしてしまいます。
知恵を働かせて世渡りしたものの
生きのびることが
できなかった中山と自分、
旺盛な食欲によって
死の恐怖を感じることなく
戦死した池田と自分、
大岡は死を避けられなかった同僚と、
生き残った自分との差異を、
多くの作品の中で
真剣に見つめています。
アンソロジーに収められた
大岡のエッセイ。
淡々とした筆致で
綴られているのですが、
その中に大岡らしさが凝縮しています。
※本書巻末の解説では、本作品を
「物語性をもったエッセイ」と
していますが、
「私小説」とも考えられそうです。
どちらなのか、
私には判断できないのですが。
(2020.9.9)