「静かな生活」(大江健三郎)

障碍を持つものへの「祈り」

「静かな生活」(大江健三郎)
 講談社文芸文庫

精神に危機を感じて
渡米を決意した父に
母が同行したため、
「私」と兄のイーヨー、
弟のオーちゃんは
家に取り残された。
兄は脳に障碍を持ち、
弟は大学受験を控えている。
「私」は家事を切り盛りしながら
「家としての日記」を綴る…。

鬱病(「ピンチ」)治癒のため
渡米した両親、
障碍者の長兄、しっかり者の妹、
理詰めで冷静な弟、
妹の書く「家としての日記」、
すべて以前取り上げた
「二百年の子供」と同じ
シチュエーションです。
しかし描かれているものは
大きく異なります。
「二百年の子供」が
ファンタジーであるならば、
本作品は、何気ない日常の
どうしようもない現実で
あることでしょうか。

語り手である
「私」=マーちゃんの視点から
綴られるのは、障碍者である
兄・イーヨーについてです
(モデルは大江の長男・光氏
そのものであることは
いうまでもありません)。
「私」は将来もイーヨーとともに
「静かな生活」を送りたいと
願っているのですが、
わずか半年間で起きる出来事は
とても「静か」とはいえません。

近所で幼女が襲われる事件が起き、
四国の伯父さんの葬儀に
イーヨーとともに参列する。
ポーランドの民主化ビラを配り、
水泳のインストラクターに
乱暴されそうになる。
それが「事件」として起こるきっかけは、
障碍者の兄と共に
生活しているからなのです。

物語の中盤、「私」はイーヨーを、
「なんでもない人」との
対比で捉えようとしています。
「自分で反省してみると、
 私はやはり兄を特別な場所に
 閉じこめるようなことを
 して来たと思います。
 なんでもない人というようりは、
 兄のことを特別な人として
 あつかう場所に。」

そして兄妹3人で
ビラ配りをする一件を通して「私」は、
「普通の、なんでもない人としての
兄の姿を発見」することになるのです。

「なんでもない人」としての
「私」の視点から、
障碍者としての兄の姿が
綴られるとともに、
障碍者に対する「私」の見方考え方が
赤裸々に提示されていきます
(それはもちろん作者・大江自身の
見方考え方であるはずです)。
そこには問題の解決や困難への支援や
救いの方法が
示されているわけではなく、
迷いと自問自答と
暫定的な私見があるだけなのです。

大江の文学に
安易な救済は描かれていません。
ただ、障碍を持つ者と
その周囲の人間に対する
「祈り」のようなものがあるだけです。
障碍者を家族に持つ者として、
考えさせられることの多い一冊です。

※大江健三郎が
 ノーベル賞を受賞した年に
 本作品のハードカバーを買って
 読んだのが最初です。
 その頃はまだわが家に
 長男は生まれていませんでした。
 その後、長男が生まれ、
 イーヨー同様の
 障碍を持っていることがわかり、
 以来、数年ごとに
 本書を読み返しています。

※大江作品について
 私はまだ初心者です。
 本作品の源流にある
 「個人的な体験」
 「新しい人よ眼ざめよ」等、これから
 読んでいきたいと思います。

(2020.9.25)

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