犯罪小説でありながらも、超一級の純文学作品
「剃刀」(志賀直哉)
(「清兵衛と瓢簞・網走まで」)新潮文庫
職人・芳三郎は熱があり、
剃刀研磨の急ぎの仕事が
思うように進まない。
今また不意の来客を迎える。
震える手。
垂れる水洟。
切れない剃刀。
無神経な客。
やがて刃が僅かに引っかかり、
血が一筋流れる。
感情が昂ぶった芳三郎は…。
志賀直哉。
美しい文章を綴る作家。
ありのままを描写しながら、
不純物を一切含まない
結晶のような文章で小説を書く作家。
私は作家・志賀直哉に
そんな印象を持っています。
だから「小僧の神様」が大好きです。
さて、志賀直哉は
そうしたほのぼのとした
小説だけではありません。
むしろ暗澹とした作品が多いのです。
中でもとりわけ衝撃的な本作品は、
犯罪小説でありながらも、
超一級の純文学作品として
完成しているのです。
ここで描かれている芳三郎は、
現在でいう理容師です。
「十年間、間違いにも客の顔に
傷をつけた事がない」のですから、
職人としての腕前は確かなのでしょう。
かつ「撫でて見て少しでもざらつけば
毛を一本々々
押し出すようにして剃らねば
気が済まな」かったのですから、
完璧主義でもあったのでしょう。
しかしこの日は
悪条件が重なりすぎました。
秋季皇霊祭前の繁忙期、
寝込むほどの風邪、
立て込む客と注文、
腕の未熟な弟子、…。
芳三郎は自分でも気づかぬうちに、
徐々に追い込まれていくのです。
芳三郎は、ついに客の喉に
五厘ほどの傷をつけてしまいます。
完璧主義の人間は、
躓くとそのまま崩れてしまう
見本のような展開が待ち構えています。
そしてそこから
志賀直哉ならではの描写が連続します。
「ジッと淡い紅がにじむと、
見る見る血が盛り上がって来た。
彼は見つめていた。
血が黒ずんで
球形に盛り上がって来た。
それが頂点に達した時に
球は崩れてスイと一ト筋に流れた。」
この膨らんで崩れる血球が、
芳三郎の精神状態を
暗示しているのです。
そしてついに悲劇が起こります。
すべてが終わったあとに訪れた
「静寂」の描写に
背筋が続々としてきます。
「夜も死人のように静まりかえった。
総ての運動は停止した。
総ての物は深い眠りに陥った。
只独り鏡だけが三方から
冷ややかにこの光景を眺めて居た。」
小説の神様だからこその
息をつかせぬ展開とあたかも目の前で
繰り広げられているかのような写実が
続きます。
安っぽい推理小説など
足下にも寄せ付けない
志賀直哉の渾身の一作です。
明治生まれの純文学作家の犯罪小説を
読んでみませんか。
(2020.9.28)