犯罪者の異常心理についての詳細な分析
「或る罪の動機」(谷崎潤一郎)
(「潤一郎ラビリンスⅧ 犯罪小説集」)
中公文庫
博士を殺害したのは
書生の中村だった。
彼は善良な青年であり、
博士に恨みはなかった。
彼は動機を滔々と語る。
私が博士を殺しましたのは、
まあ一と口に云いますと、
全く殺す理由がないと云う所に
理由があったのでございます…。
以下、殺人の動機について
彼の供述が続きます。
文庫本にしてわずか15頁の
谷崎潤一郎の短篇ですが、
読み終えたあとは
大きな衝撃が残りました。
現実世界で度々起こる
「無差別殺人」「通り魔殺人」を
引き起こす人間の心理は、
実はこのようなものではないかと
思われるからです。
常人とはかけ離れた心理が
現れています。
本作品の味わいどころは、
その「異常心理」ということになります。
〔登場人物〕
博士
…殺害される。円満な性格。
中村
…博士を殺害した男。博士の書生。
孤児だったが、博士に養われる。
F探偵
…事件を捜査した探偵。
本作品の味わいどころ①
異常心理・相手に非がないから殺した
相手に何らかの非があり、
恨みを買う理由があり、
それが原因で殺人に及んだ。
殺人とはそのようにして起こるものだと
一般には考えられがちです。
彼は違います。
相手に非がないから
殺したというのです。
「先生がそれ程
圓満な人格の方だった事、
先生の周囲がそれ程
幸福に充ちて居た事が、
それが直ちに原因になったのです。」
本作品の味わいどころ②
異常心理・自分は何をやっても構わない
彼はさらに自己分析の結果を語ります。
自分は何事にも無感情であり、
何をやっても長続きしない、
だから正しく生きることは
不幸の連続である、
だから自分は孤独だった、と
吐露するのです。
「人間はどんな事をしたって
構わないが、
又どんな事をしないだって
差支えない。
自分が斯うして生きて行くのは、
最も正しい生き方であると
云う気がしたのです。」
本作品の味わいどころ③
異常心理・
自分の孤独に誰も気づかないのが悪い
その孤独を、誰も気づかないのは
周囲が悪いのだと彼は言い切ります。
「あなた方の幸福は
全く偶然の賜物であるのに、
誰方もそれを
反省なさる様子がない。
私のような不運な人間に対して、
ちょっと一と言ぐらい
御挨拶があって然るべきです。」
本作品の味わいどころ④
異常心理・空想と現実の区別の欠如
さらに彼は、
最初は空想を楽しんでいたが、やがて
空想と現実の区別がつかなくなり、
犯行に及んだことを告白するのです。
「全く、空想に釣り込まれて
ウッカリやってしまったんです。」
自己の欠点については
異様に寛容でありながら、
他者のそれについてはいささかなりとも
(落ち度がなくとも)許せない。
これこそがまさに「無差別殺人」
「通り魔殺人」の犯罪者たちの
心理なのではないかと思うのです。
本作品が著されたのは、
無差別殺人も通り魔も
まだ存在しなかったであろう
大正十一年です。
その段階で谷崎は
犯罪者の異常心理について
詳細な分析を試みていたのです。
谷崎らしい作品といえます。
さて、この中村青年と
「無差別殺人」「通り魔殺人」犯罪者との
違いはただ一つです。
「私は無精な人間ですから、
そんなに遠い所へなんか
動いて行く気はありませんでした」。
(2020.9.29)
〔「潤一郎ラビリンスⅧ」〕
前科者
柳湯の事件
呪はれた戯曲
途上
私
或る調書の一節―対話
或る罪の動機
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