距離は広がる、距離感は狭まる
「斑鳩物語」(高浜虚子)
(「百年文庫005 音」)ポプラ社
急がしけに走ってでたのは
十七八の娘である。
田舎娘にしては
才はじめた顔だちだ。
手ばしこく余の荷物を受取って
先に立つ。
廊下を行っては
三段ほどの段階子を登り
余を導く。
小作りな体に荷物をさげた
後ろ姿が余の心を牽く…。
「斑鳩物語」と聞くと、
何か奈良時代の歴史を描いた
長編大作のような印象を
受けてしまいますが、本作品は、
この「余」(=虚子)とお道という「娘」の、
出会いを綴った掌編です。
筋書きらしいものもなく、
旅先での印象を書き記した
随筆のような文体です。
全体は上中下の
三つの部分に分かれています。
「上」は法隆寺前の宿屋・大黒屋での
お道とのやりとり、
「中」はその翌日、
法起寺の三重の塔の欄干から
「余」が眺めたお道とその恋人のようす、
「下」はその日の晩、
再び大黒屋に投宿したときに聞こえた
お道の機織りの音について
描かれています。
ここで面白いのは
「余」とお道との距離が
どんどん広がっていることです。
「上」は宿の一部屋で、面と向かって
気さくに二人は話しています。
現代のホテルウーマンのような
へりくだった
丁寧な言葉ではありません。
純朴な田舎娘らしい
方言丸出しのぶっきらぼうな話し方。
でもとても温かみを感じさせます。
それが「中」では
「余」は三重の塔の上から
お道を遠く眺めているのです。
お道は見られていることにさえ
気付かない。
恋人と仲よく話をしているのです。
さらに「下」ではお道の姿は見えません。
音が聞こえるだけです。
機を織る音が。
音は二とおり聞こえます。
「二処でしているね。
それに音が違うじゃないか。
お道さんの方はどちらだい」
「そらあの音の高い
冴え冴えした方な、
あれがお道さんのだす」
「どうしてあんなに違うの。
機が違うの」
「機は同じ事ったすけれど、
筬(おさ)が違います。
音のよろしいのを好く人は
筬を別段に吟味しますのや」
「上」→「中」→「下」と、距離が次第に
広がっていったにもかかわらず、
「余」にはお道さんの人柄の良さが
ますます実感として
理解できるようになっている、
つまり距離感は狭まっているのです。
大きな事件など起きなくても
小説は面白くできるのです。
淡泊な味わいを
じっくり噛みしめたい逸品です。
※ソーシャル・ディスタンスが
叫ばれる昨今、
物理的な距離は広がっても
心理的距離は遠ざけてはならないと
感じてしまう一作です。
(2020.10.8)
【青空文庫】
「斑鳩物語」(高浜虚子)