三種の収録本から見えてきた作品の姿
「島守」(中勘助)
(「犬 他一篇」)岩波文庫
「島守」(中勘助)
(「百年文庫028 岸」)ポプラ社
「島守」(中勘助)
(「日本文学100年の名作第2巻」)
新潮文庫
明治四十四年九月二十三日、
ひどい吹きぶりのなかを
島へわたった。
これから「私」の住居となる家は、
ほんの雨つゆしのぎに
なるばかり。
周囲の山やまから
おしよせてくる寒さを、
この都人に防いでくれるほどの
用には立たない…。
中勘助の小説「銀の匙」は
多くの人に読み継がれた
名作だと思いますが、
中勘助のそれ以外の作品を
読んだことのある人は
決して多くはないのではないかと
想像します。
本作品も、
中勘助の愛好家でなければ
接する機会の
少ないものではないかと思います。
筋書きといえるもののない本作品は、
中勘助が信州野尻湖に
浮かぶ島(弁天島)に、
島守(=島の住人)として
移り住んだ時期を振り返って書いた、
日記に手を加えた私小説です。
調べてみると、あの「銀の匙」前編は、
この信州湖畔滞在時に
執筆されたものなのだそうです。
「銀の匙」にも通じる、
美しい日本語で綴られた
奥行きのある文章によって、
急ぎ足で夏から冬へと移りゆく
弁天島の風景が、
目に浮かぶような臨場感を伴って
迫ってきます。
しかしその美しい文章の奥に
何が潜んでいるのか。
何度読んでもはっきりと
捉えることができないでいます。
私は本作品を収録した本を、
三種類所有していまが、
他のどんな作品とともに
読むかによって、
見えてくるものが
異なってくるからです。
一冊目は新潮文庫
「日本文学100年の名作第2巻」。
この本で読んだのが初読です。
15名からなる作家たちによる、
1924年(大正13年)から
1933年(昭和8年)までに書かれた
作品を集めたアンソロジーの
冒頭に収められています。
多くの作品に、
関東大震災からの復興や
昭和改元による新しい時代の到来、
そして忍び寄る戦争時代の影
が認められる中で、
そうしたものを一切含まない本作品は、
百年前の日本という国の、
美しい自然を湛えた純粋な姿を
現代に伝える役割を
担っているかのようです。
二冊目は、小説「犬」とともに編まれた
岩波文庫「犬 他一篇」です。
この本で再読しました。
「銀の匙」しか読んだことのない方は、
この「犬」を読めば驚かれると思います。
なぜ中勘助が
このような醜悪な小説を書いたのかと。
まるで異なる作風の作品を
ひとまとまりにした
編集者の感覚を疑いましたが、
実は単行本発表当初、この二篇で
「犬 附島守」となっていたのです。
三冊目がポプラ社「百年文庫 岸」です。
寺田寅彦、永井荷風の作品とともに
本作品が編まれています。
「岸」というテーマで集められた
三者の作品に共通しているのは
「孤独」です。
人間社会もしくは世間というものを、
対岸から眺めているかのような描写が、
それぞれの作品に認められるのです。
「性来、特に現在甚だ
人間嫌いになった私」という一文が
出てくることからもそれがわかります。
そしてそれ以上に、
本作品には「私」以外は
「本陣」という通称で表させる一人しか、
具体的な言動を伴っている人物は
登場しません(あと二名ほど
行きずりの人間との会話が
記されているのみ)。
さて、日記の最初の日付に戻ります。
明治四十四年九月二十三日から
計算すると、このとき中勘助は
二十七歳ということになります。
改めて読み返したとき、
この世捨て人が書いたかのような
作品には、
若さの欠片も見当たりません。
極めてストイックです。
一切の「欲」が
捨て去られたかのようです。
そうなると、本作品からは
「犬」との対比的な構造が見えてきます。
二十代にして禁欲的な生活に入り込んだ
本作品の「私」の精神的孤高と、
五十路をすぎ老境にさしかかって
肉欲に目覚めた「犬」の老僧の醜悪さ。
「島守」と「犬」は、
一枚のコインの裏表のような
関係にあるのかも知れません。
中勘助は、これらの作品で
一つの何かを伝えようとしたのかも
しれないと思うようになりました。
時間をおいて四度目の
再読をしてみたいと思います。
「犬」と本作品を次に読んだとき、
何が見えてくるのか楽しみです。
(2020.10.19)
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