こうした本は貴重な文化遺産
「子を貸し屋(作品集)」(宇野浩二)
新潮文庫
横浜の芸者屋へ
身売りした元妻が、ある夜、
「私」を訪ねてきた。
「私」はそのとき
貧乏のどん底であり、
下宿を追い出される
寸前であった。
夕飯も食べていない
彼女だったが、食べさせる銭も
泊める宿もない身の「私」は、
仕方なく…。
(「人心」)
平成六年に復刻された文庫本ですが、
昭和二十五年に出版されたものが
改版されずに
そのまま復刊してあるため、
本書は旧仮名遣い・
旧字体のままになっています。
そのため相当に読みにくい(古い漢字に
馴染みのないものが多い)のですが、
慣れてくるにつれ、
面白さがわかるようになりました。
親類からの仕送りが
断ち切られた「私」のもとへ
母が上京してくる。
さっそく金に困り、
竹下という業者のもとへ
原稿を持ち込むが、
出版社に取り次ぐ気配が
一向になく、ただ
のらりくらりとかわされる。
月々の支払も滞った「私」は…。
(「あの頃の事」)
それにしても明治生まれの作家は
裕福だった人と貧乏だった人に
はっきり分かれるようです。
漱石や谷崎の小説の主人公は、
生活苦など微塵も感じさせません。
この宇野浩二は
間違いなく貧乏だったのでしょう。
その日の食うものにも困る様子が、
「あの頃の事」には
包み隠さず描かれています。
元芸者の小瀧と夫婦になった
小説家の「私」は、
妻に届いた借金の督促状の
直談判のために
諏訪へ行こうとする。
ところが妻は
行かないでくれという。
その町には、
「私」がかつて関係していた、
子持ち芸者の
ゆめ子がいたからである…。
(「一と踊」)
ここまでの三作品は、
芸者ゆめ子との関わりを描いた私小説で
「ゆめ子もの」と呼ばれています
(他に「甘き世の話」「夏の夜の夢」
「心中」「山恋ひ」等がある。
私は未読ですが)。
大正八年、原稿執筆のために
広津和郎らとともに
下諏訪の旅館「かめや」に滞在した際に
出会った芸者・鮎子が
モデルとなっています。
作品中の名前の通り、
その芸者は宇野にとって
「ゆめ」のような女性だったのでしょう。
さまざまに商売を替えたあげく
団子屋を始めた佐蔵は、
亡き相棒の子ども・太一を
商売女に貸して
思わぬ金を手にする。
「子を貸し屋」である。
次第に他の女たちからも
頼まれるようになり、
本業よりも子貸し業の方が
繁盛してしまう…。
(「子を貸し屋」)
実は最後に収録されてある
「子を貸し屋」以外、
筋書きはないに等しい小説なのです。
では何で読ませていたのか?
それは独特の語り口です。
まるで「読む漫談」です。
当時の読み手は
ラジオのトーク番組でも
聴いているつもりで
読んでいたのかも知れません。
ちなみに「子を貸し屋」だけは
全編ほぼすべて創作であり、
その他の三作品は私小説です。
これは子どもに薦められるような
代物ではありません。
読書体験を積み重ねた
大人だけが味わえる、
地味ではあるものの超一級の
エンターテインメントなのです。
子どもたちが将来、
こうした貴重な文化遺産に
辿り着くことが出来るようにするのも
大人の役割です。
(2020.10.20)