勇気をもらうことのできた一冊
「絵のある自伝」(安野光雅)文春文庫
私の大好きな画家・安野光雅氏。
画家に止まらず、
多くの書籍に美しい装丁を施し、
いくつもの心に響く絵本を描き上げ、
科学・数学・文学にも造詣の深い氏の、
本書は唯一の「自伝」です。
自伝といっても、自分の半生を
ことさら重々しく書いた俗なものとは
まったく異なります。
当時の教科書、
戦争にまつわる思い出、
新婚生活、
ダイアナ妃の思い出等を
軽妙洒脱に語りながら、
自身の考え方や在り方を
挟み込んでいるという
随筆風の仕上がりです。
教職経験のある氏の、
ところどころに現れている
教育者の視点に、
私は大いに共感できました。
自身の幼年期について
「運動会で走ればいつもビリだし、
鬼ごっこをしても
すぐにつかまった。
よほど愚図だったのだろうが、
わたしは三月二十日生まれ、
つまりクラスでも
一番遅く生まれたためだと、
思っている。」と語っています。
そして、
徒競走をなくしたり
みんなが一斉に手を繋いで
ゴールインするような、
競争を否定する現代の教育について、
「ばかばかしいと思う」と
一蹴しています。
「一位になっても得意になるな、
ビリでべそをかくような子は
はじめから走るな。
君たちを待っている世の中は
なんでも競争するように
できているのだ。
いいか今一等になるために
走るのではないよ、
いつか大人になって
一等になっても得意にならず、
ビリになってもくじけない、
プライドを持つ日のために走るのだ」
さらに、一つの章の中に、
実にさまざまな素材が
盛り込まれているところに
感銘を受けました。
前述の部分は「不登校と不信仰」という
章の一節ですが、そこには
ヴェルディの歌劇「ナブッコ」、
明治の廃仏毀釈運動、
戦時中の千人針と防空演習、
石川啄木の詩、
ホーキング博士の死生観などが
縦横無尽に現れます。
しかし、それらは見事なまでに
一つに繋がっていて、
私の胸にすとんと落ちてきました。
絵の苦手な私は氏の画を見て
「あんな風な絵が描けたらなあ」とは
思いません。
しかし文章を読むことも書くことも
好きな私はついつい
「こんな文章を書けたら」と
思わずにはいられません。
1926年生まれの氏は現在94歳です。
本書は2011年出版、
85歳で著したものなのです。
そうか、85歳で
こうした文章を書けるように、
あと三十数年間書いていればいいんだ、
そんな勇気を
もらうことのできた一冊であり、
多くの人にお薦めしたい逸品です。
※50数点の挿絵があり、
それも心が和みます。
(2020.12.21)