「リトルターン」(ニューマン)

幾様にも解釈が可能な、大人が読むべき「絵本」

「リトルターン」
(ニューマン/五木寛之訳)集英社文庫

リトルターン(コアジサシ)の
「ぼく」は、
ある日突然飛べなくなる。
「ぼく」は
飛べなくなった理由を考える。
それは翼や脚といった
外部ではなく、
自分の内面に問題が
あるのかもしれないと。
飛ぶための信念や本性が
失われたのかも…。

本書は文字だけを追っていけば
三十分程度で読了できるくらいの
文章量しかありません。
しかもふんだんに挿入されている
水彩画により、
視覚的にも楽しめます。
しかし本書は、
ただ読むだけではいけない類いの
作品だと思います。

限りなく詩的な文章で綴られた
「寓話」的な筋書きは、何かを
暗示していると思われるのですが、
明確に読み取れるわけではありません。
本書のテキストは、
読み手にメッセージをストレートに
伝えようとはしていないのです。

そして挿入画もまた、何かを
積極的に語りかけてはくれません。
限定的に表現されているものを
補完してはいるのですが、
その裏側にあるものを
透視することを
要求しているかのようです。

直接的な理解は難しいのですが、
それは同時に、本作品は幾様にも
解釈が可能であるともいえるのです。

「普通とか普通でないとかいう
 見方にとらわれている限り、
 普通でないものは
 普通じゃないんだ」

「ただ待って
 時間を無駄にすることと、
 待ちながらじっくり学ぶことの
 違いを発見せよ」

「影というやつも、
 いちど発見すると、
 最初から簡単に
 見つけ出せるものよりも、
 さらに大きな価値がある」

ふと、不登校で苦しんでいる
子どもたちのことを
考えてしまいました。
何が原因で
飛べなくなってしまったのか
わからないまま、
彼らは苦しんでいるのです。
昨日まで仲間であった友だちと
一緒の生活ができない。
有効な解決策が見いだせないまま
時間だけがむなしく過ぎていく。
淋しく佇むアジサシの水彩画に、
彼らの姿を重ねてしまいました。

不登校の子どもたちに
本書を薦める、というのは
野暮なことなのでしょう。
それよりも私たち大人が読んで、
彼ら彼女らの内面に思いを寄せ、
寄り添う気持ちを持つことこそ
大切なのかもしれません。

もちろんそこに、
コロナ渦で挫折した人々の姿や、
退職して社会で居場所を
失ってしまった大人たちなど、
いろいろなものを
重ねることが可能です。
再読すれば、また違ったものが
見えてくるものと思われます。

五木寛之訳の鳥の物語といえば、
 もちろん「かもめのジョナサン」です。
 こちらは陽の当たるところを生きた
 鳥の物語でしたが、
 本書はさしずめ影を経験した鳥の
 再生の物語といえるでしょう。

(2020.12.23)

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