わからないながらも見えてくるもの
「夕餉」(カズオ・イシグロ/出淵博訳)
(「集英社ギャラリー世界の文学5」)
集英社
カリフォルニアから
父の住む鎌倉の実家へ、
「ぼく」は帰ってきた。
妹の菊子も
大阪から戻ってきていて、
久しぶりに親子三人が
顔を合わせることになった。
しかし気まずい空気が流れ、
会話は弾まない。
父は夕食の支度をし始めた…。
上の粗筋を読んでも
何も面白みを感じないでしょう。
実際に読んでみてもそうです。
登場人物である
語り手「ぼく」・父・妹の三人の、
妙によそよそしい夕餉の風景が
描かれるだけで事件は何も起きません。
いや、「事件」はここに至るまでの間に
起きていたのでしょう。
それについて
何一つ明確に書かれてはいません。
「事件」の痕跡が描かれているのです。
事件①「ぼく」と父との確執
「ぼく」と父の会話の場面は四つ。
そのすべてに両者の距離感を感じます。
「ぼく」を空港まで出迎えた
車中での父親の台詞
「わたしとしては、
済んだことは水に流すつもりだ。
お母さんもいつでも
迎え入れる気持だったようだ。」
多分両親と衝突するような
「事件」があって、それで米国へ
家出していたことが推察されます。
事件②母親の死の謎
作品冒頭で、「ぼく」の母親が
河豚の毒にあたって亡くなったことが
書かれています。
しかし、夕食前のやはり父親の言葉
「お母さんの死は事故ではないと
わたしは信じているんだ。
あれには山のように
心配ごとがあったからな。」
真相への手がかりは
一切記されていません。
事件③父親の会社の倒産
会社が倒産し、
事業から引退したからこそ、
心に余裕ができ、
息子と和解する心持ちになったことが
うかがえます。
しかし何の会社が
なぜ倒産したかは謎のままです。
「事件」の一切がわかりません。
しかしわからないながらも
見えてくるものがあります。
親子の間に断絶を招いた壁があり、
その壁が時間の経過と母親の事故死と
父親の隠退のために風化してきた。
それを感じた父子両者が
互いに歩み寄り、
その壁を乗り越えようとしている。
その様子が、いかにも日本らしい
夕餉の風景と相まって、
しみじみと伝わってくるのです。
親子三人が囲む夕餉の献立は魚の鍋。
「じつに美味い。これは何です?」
「ただの魚さ」
それすらも明らかにされません。
すべてが朧気な中に、
かろうじて繋がっている
親子の絆を浮かび上がらせる。
日本生まれの英国文学者、
そしてノーベル文学賞作家、
カズオ・イシグロの、
いかにも日本の風景らしい一品です。
(2021.1.6)