人間にとって「罪」とは何か、「罰」とは何か。
「罪と罰」
(ドストエフスキー/亀山郁夫訳)
光文社古典新訳文庫
予審判事・ポルフィーリーと
対峙するラスコーリニコフは、
相手が何かを知っていると
察知する。
ポルフィーリーは
本人さえも雑誌掲載に
気付いていなかった論文
「犯罪論」を持ち出し、
ラスコーリニコフを追及する。
その論文とは…。
ドストエフスキーの大作「罪と罰」
第2巻(第3部・第4部)です。
前回記したとおり、
この第2巻ではじめて
彼の論文「犯罪論」が
ポルフィーリーの手によって開示され、
読み手はこの殺人事件の
動機を知ることとなるのです。
その論文の骨子は
いわゆる「選民思想」です。
「すべての人間は
「凡人」と「非凡人」に分けられる。
「非凡人」は
その思想を実現するにあたり、
法を踏み越える権利が
与えられている。」
ナポレオンが
戦争で多くの人間を殺害しながらも
英雄としてあがめられているように、
「己の理想の実現のために
行った手段については責任を
問われるべきではない」というのが
彼の思想なのです。
「ぼくは勉強したけど、
学費がつづかなくて」
「何を好きこのんで
耐えしのばなけりゃならない?」
「決心したんだよ。
あのばあさんの金を手にし、
これから何年かの
生活費にあてるってね」(第3巻より)
いかにも身勝手な論理です。
しかし当時のロシアの
状況を考えたとき、
まっとうな方法では極貧から
抜け出せないこともまた事実です。
作者・ドストエフスキーは、
貧困生活を送る
マルメラードフ一家を登場させ、
それを示しています(あたかも
後世の読み手・異国の読み手を
想定していたかのように)。
相手は強欲の金貸し老婆、
自分にはそれを殺して
金を奪う権利がある。
自分の犯罪を正当化しているのに、
なぜラスコーリニコフは
苦しんでいるのか?
もし心底そう信じているのであれば、
苦しまないはずです。
彼はナポレオンには
なりきれなかったのです。
殺害計画を練る段階においても
実行する最中においても、
彼は葛藤し逡巡し続けます。
おそらくそれこそが
彼に僅かに残されていた
「人間性」の欠片であり、
それがエピローグにおける
彼の更生につながったものと
考えられます。
しかしその「人間性の欠片」は、
自身の論理を突き崩し、
自身のよりどころを破壊し、
それによって彼の精神は
崩れ落ちていくことになります
(完全なる崩壊を免れるよう、
作者は彼の妹や母親、ソーニャ、
友人ラズミーヒン等を
絶妙に配置しています)。
そう考えたときに、
第1巻とは異なり、
第2巻におけるラスコーリニコフの
「罪」とは、(彼の目線に立ったとき)
英雄になりきる一線を
踏み越えることができなかったこと、
そして「罰」とは
自身の精神の崩壊と考えられるのです。
人間にとって「罪」とは何か、
「罰」とは何か。
ドストエフスキーの投げかけた「問い」が
明確さを持って迫ってくるのが
この第2巻なのです。
ポルフィーリーとの
二度にわたる息の詰まるような
駆け引きが読みどころであり、
「心理サスペンス」として味わうような
楽しみ方もできるのですが、
それ以上に文学的な問いかけに対して
読み手が自身の「解答」を
思索することの方が重要と思われます。
(2021.1.12)