ドストエフスキーの提示する「罪」と「罰」の意味
「罪と罰」
(ドストエフスキー/亀山郁夫訳)
光文社古典新訳文庫
ラスコーリニコフの
とるべき道は、
「自決」「国外逃亡」
「シベリア行き」の
三つしかないことを
スヴィドリガイロフは指摘する。
死を選ぶこともできず、
逃亡も選択できない
ラスコーリニコフは、
ついにソーニャに
真実を打ち明ける…。
ドストエフスキーの大作「罪と罰」の
いよいよ最終巻です。
ポルフィーリーとの三度目の対決、
謎の男・スヴィドリガイロフとの
駆け引き、
妹・ドゥーニャを巡る
スヴィドリガイロフの陰謀と
その行方等々、
読みどころは豊富なのですが、
注目すべきは
ラスコーリニコフとソーニャの
二度にわたるやりとりです。
一度目は罪の告白、
二度目は自首の報告です。
最終的に彼は、自ら警察署に出頭し、
真実を述べる決意をするのです。
ここで考えるべきは、
「自首=罪の自覚」では
ないということでしょう
(彼が自らの罪と向き合うのは、
実は「エピローグ」の中でのこと)。
彼の自首は
逃亡や自死を選べなかった結果の
消去法的選択であり(それとても
大きな勇気が必要であり、
その支えが
ソーニャの存在だったといえる)、
決して自らの罪を
認識していたわけではないのです
(それは二人のやりとりの間に
度々起こる意識の食い違いや、
警察署への出頭が
ためらわれたことからもわかる)。
彼の消極的選択を浮き彫りにすべく
役割を与えられた人物が二人います。
ソーニャとスヴィドリガイロフです。
ソーニャはキリスト教徒として、
彼に罪の自覚と
その罪を償うことを促します。
ラスコーリニコフが「犯罪論」の考えに
至った理由の一つに、
彼が無神論者だったことが
あげられます。
神の存在を説き、自首に向かう彼に
ソーニャは十字架を手渡すのです。
ソーニャを愛し始めていた彼は、
そのため自殺を
選べなくなったと考えられます。
一方、スヴィドリガイロフは、
ラスコーリニコフに国外逃亡の
資金援助を持ちかけます。
しかし彼は
愛する妹を我がものにしようと画策する
スヴィドリガイロフの企みを見抜き、
それを断ります。
その段階で「国外逃亡」という選択肢も
消滅するのです。
ラスコーリニコフは、
死ぬこともできず逃げることもできず、
生きながらえること、つまり
自首して「シベリア行き」になることを
選択するしかなかったのです。
なお、ドゥーニャの愛を得ることが
できなかったスヴィドリガイロフは、
「アメリカに行く」と言い残して
拳銃自殺します。
「自分に近い人間」と、
ラスコーリニコフ自身が考えていた
スヴィドリガイロフが、
「自決」と「国外逃亡」の二つを
同時に行ったことと対比され、
ラスコーリニコフの消去法的選択は
一層明確になるのです。
そう考えると、この最終巻での
ラスコーリニコフの「罪」は、
自らの罪を自覚できなかったことと
考えられます。
そして彼の受けた「罰」は、
生きながらえなければ
ならなかったことといえそうです。
この第3巻にいたるまで、読み手は
作者・ドストエフスキーの提示する
「罪」と「罰」の意味を、
多角的重層的に
感じられる仕組みになっているのです。
ここではもはや第1巻での「犯罪小説」、
第2巻での「心理サスペンス」といった
表面的な装飾の一切を脱ぎ捨て、
人間の在り方を追求する
希有の文学作品として、
その真の姿を現してくるのです。
(2021.1.13)