跋扈する登場人物たちが提示する「罪」と「罰」
「罪と罰」
(ドストエフスキー/亀山郁夫訳)
光文社古典新訳文庫
ドゥーニャとの結婚のために
家族との会見から
ラスコーリニコフを
排除しようとするルージン。
ラスコーリニコフを
執拗に追及する
予審判事・ポルフィーリー。
そして謎に包まれた男・
スヴィドリガイロフ。
彼らの行動の真意は何処に…。
千三百頁にも及ぶドストエフスキーの
畢生の大作「罪と罰」。
大規模な構造の分だけ
多様な登場人物が跋扈するのですが、
その登場人物の多くが、
少なからず「罪」とは何かを
読み手に感じさせます。
そこに私は作者・ドストエフスキーの
設定の素晴らしさを
感じてしまうのです。
本作品を読む醍醐味とは、
ラスコーリニコフ以外の「主役たち」を
読むことにあるのではないかとさえ
思えます。
まずはラスコーリニコフの
妹・ドゥーニャの婚約者・ルージン。
登場当初は紳士然としていたのですが、
次第にその
人間の卑小さが表れてきます。
彼の「罪」は間違いなく
ソーニャを冤罪に陥れた罪です。
しかしそれだけではなく、
貧困にあえいでいる
ドゥーニャと結婚し、
彼女を夫に逆らうことのない
従順な妻にしようという思い上がりこそ
糾弾されるべき「罪」であると感じます。
その冤罪を追及する場面においては、
ルージンよりもむしろ殺人を犯している
ラスコーリニコフの方が、
人間として大きく感じられるから
不思議です。
ルージンという人物を使って、
ドストエフスキーは私たちに
「罪」とは何か、問いを投げかけます。
続いて予審判事・ポルフィーリー。
彼は司法の人間であり、
何ら「罪」を犯していません。
「罪」を裁く側の人間です。
しかし彼の言動から受ける印象からは、
決して正義を守ろうだとか
法を守ろうだとかという意識が
感じられません。
むしろ彼の手法は当時であっても
違法捜査ではないかと思われます。
その人間の一生に関わる問題を、
物的証拠なしに自分の見込みだけで
シナリオを描き、罪を自白させる。
近年まで見られた
冤罪のつくられる構図そのままです。
これもまた十分「罪」なのではないかと
思うのです。
もちろんラスコーリニコフの犯した
殺人とは全く異質ですが、
だからといってその「罪」が軽いとは
決して言い切れません。
さらにはドゥーニャとの結婚を
画策するスヴィドリガイロフ。
彼は本当に妻を殺したのか?
なぜドゥーニャに手をつけず
部屋から解放したのか?
彼の行動は謎に満ちています。
そして心証は限りなく「黒」です。
多様な読み方が可能ですが、
彼が妻を殺害したのは事実だと
私は判断しました。
彼はラスコーリニコフ同様、
いずれ司法の手が伸びることを
予感していたのではないかと
考えられるのです(だからこそ
ラスコーリニコフの辿るべき道を
正確に言い当てることができた。
それは彼の歩む道でも
あったのではないか)。
彼はドゥーニャがなびけば
そのまま海外逃亡、しかし
自分に心を開かなかったからこそ
すべてに絶望し、
「自死」という方法を選択したのだと
考えられます。
ラスコーリニコフ、
スヴィドリガイロフ、
両者ともお互いを
「最も自分に近い人間」と
感じていたのは、
「お互いに殺人者である」ことの
暗示ではないかと思うのです。
同じような「罪」を犯しながら、
その「罰」の受け方を
全く対照的な形で選択した二人であり、
だからこそラスコーリニコフの
「罪」と「罰」が浮き彫りとなるのです。
さて、最も悪人らしい
男性三名をあげましたが、
純真なソーニャでさえ
「罪」を内包しています。
彼女はいわゆる「公娼」です。
「黄の鑑札」(公娼に対して身分証明書と
引換えに発行される証明書)が
あるからこそ合法なのですが、
それがなければ違法です。
ここにも「罪」とは何かという主題が
小さいながらも潜んでいるのです。
多くの登場人物の役割は、
実はラスコーリニコフの「罪」と「罰」を
浮き彫りにしながら、
それを多角的重層的総合的俯瞰的に
考えるための「駒」として
機能しているのです。
ここに作者・ドストエフスキーの
卓越した創造性を感じてしまいます。
この作品は、
緻密に創り上げられた
巨大な建造物のような構造を
成しているのです。
本作品「罪と罰」を
まだ読んでいない方は、
人生において少なからぬ損失を
被っているといって
過言ではありません。
死ぬまでの間に
必ず一度は読むべき作品です。
私は五十四歳で読みました。
できれば若いうちに読むことを
お勧めします。
(2021.1.18)