横溝の創作過程を知る上での貴重な資料
「貸しボート十三号(昭和32年原形版)」
(横溝正史)(「金田一耕助の帰還」)
光文社文庫
白昼の隅田川に浮かぶ
一艘の貸しボートには、
血まみれの男女の
凄惨な死体が横たわっていた。
不思議なことに二つの死骸は、
どちらも首が途中まで
切断されかかった状態だった。
なぜ犯人は切断を中止したのか?
金田一耕助は…。
昨日取り上げた横溝正史の傑作中篇
「貸しボート十三号」には、
原形版と呼ばれるものがあります。
昭和32年に雑誌掲載されたのは
本作品の方です。
途中までの展開はほぼ同じなのですが、
「これ以上、金田一耕助の活動と
推理を追っていくことは、
いたずらに原稿用紙の枚数を
ふやすことになるので」
その謎解きだけが
一気に述べられているのです。
翌年単行本収録する際、
いくらなんでもこれでは、と
思ったのでしょうか、
原稿用紙の枚数を約4倍に増やして、
内容を充実させたのが現行版なのです。
では追加されたのはどの部分か?
実は昨日「本作品の読みどころ」として
指摘した三点のうち、
①だけが共通(作品の骨組みの
部分ですから)、
②③がそのまま
追加された部分となるのです。
【主要登場人物一覧】
井口藤子…40歳。被害者。
駿河譲治
…被害者。X大学生、ボート部所属。
秀才。
井口健造
…被害者・藤子の夫。役所職員。
川崎美禰子…被害者・駿河の婚約者。
等々力警部…警視庁警部。
金田一耕助…私立探偵。
改訂版は、まず第一に
ボート部員を複数名登場させています。
鍵を握る部員として
親友の二人・八木・矢沢両名を設定し、
熱い友情物語を絡めさせることに
成功しています。
さらに昨日は記さなかったボート部員・
片山・青木・児玉・古川等のメンバーを
仕立て上げ、
いかにも大学の運動部らしい雰囲気を
醸し出しています。
これによって物語に
一層の厚みが出てくるとともに、
この作品ならではの味わいの創出に
つながっているのです。
次に美穂子(本作品では美禰子)の
父親ではなく伯父・神門貫太郎を
登場させ、一族の娘とすることにより、
美穂子の立場を明確にするとともに、
終末の感動場面を
創り上げているのです。
当然のことですが、
改訂版の方が優れた作品であることに
間違いはなく、
この原形版がこれまで日の目を
見なかったことは致し方ありません。
しかし本作品に
全く価値がないわけではありません。
改訂版と原形版を比較することにより、
まずはじめに
殺人事件の骨格を組み立て、
それが最大限生かされるように
筋書きを膨らませていき、
それに見合った登場人物を配置する。
一人一人に明確な役割を与え、
登場人物に生命感を植え付ける。
そうした横溝の創作過程を知る上で、
貴重な資料となっているのです。
横溝はこうした自作品の改訂作業を
頻繁に行っています。
そうした「原形版」が世に出ることは、
横溝の作品世界がより深く
理解されることに資するのです。
こうした作品集が
今後も出版されることを期待します。
※それにしても
完成度の高い改訂版が絶版状態で、
原形版が現在も入手可能という
ねじれ現象は一体どういうことか。
この点についても角川文庫には
猛省を促したいところです。
(2021.2.26)